2013.06.30
「田中教授の最後の講義」を読んで1
佐藤賢太郎

 サブタイトルは「論理とことばで人生を創り直す」である。なんとまあ難しいタイトルである。私なら、そんなタイトルはつけないと思った。「論理とことばで」、そんなのは私の肌に合わない。言葉が先行する人間とは肌が合わないと思うからである。

 私は作家として作品を作るとしたら、論理とか言葉など関係なく創造的に造形物を生み出す。しかも自分が作っているようで、それは先人のものを真似ているか、触発され少しオリジナルが加わるか、さらに言えば、何者かによってつくらされているのかもしれない。そう思っているので、「論理とことばで人生を創る」はいささか抵抗があった。

 しかし、読みながら合意点を見いだすことになる。ふと思った。私は物書きではないが、ホームページに載せるため、ものすごく多くの文章、言葉を並べていると思う。これは何だろう。言葉で人生を創り出すということなのかも知れない。私にとって文章を書くとはどう言う意味なのか。それは想像的に書くのではなく、実態を考えるために書き、しかも人と心を繋ぐため、発展的に自分の考えをまとめて、次の実行決意をつくるためと思っている。ここまでくると、言葉が人生を創るということは受けがたいということにはならないとも思う。しかも、最近のことだが私はガン患者になって死の世界も想像することとなった。 

 その場面において、一冊の本から私は行動の選択をした。それは言うまでもなく言葉である。命がけのことを、ある言葉を信じたということである。

もう一度戻ってみる。私は皆さんの結集をはかり、コスモ夢舞台を牽引してきましたが、本当によくここまできたと思う。コスモ夢舞台は最大のモニュメントかもしれません。しかし精神的にも肉体的にかなり無理をし、それがピークに達し、ガンにもなったのかもしれません。

メンバーの性格は一律ではない、それぞれバラバラな個性に対応することが大切であった。私はコスモ夢舞台という楽団の指揮者のような役割であると自認している。

結集には言葉も大きいファクターであります。しかし言葉によってのみ、人は動くものではありません。行動そのものを見て、そして、その人の言葉によって動きます。

 会員は個性があって、バラバラな表情や言葉を発する。一律の方が楽であるが、この違いがあって、ここまで続いてきたのだと自分に言い聞かせている。最近は仲間だけでなく、それ以外の方々とどんどん人間関係を結ぶようになってきた。疲れることもある。しかしそれは、こうでなければならないという人間の狭さからくるのであろう。それを自分の中で受け入れる心の幅を創ることによって、多少疲れは解消される。

違う世界に住む人間をどれだけ認め受け入れられるか、それが人間力にもなろうと思う。