縄文の風1 |
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「縄文に関心をもったこと」 |
佐藤賢太郎 |
先日、郡山で縄文土器の造形展を家内とマスガさんと宮川さんで見学してきました。 |
2004・3・3 |
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縄文の風1を読んで |
森 英夫 |
佐藤さんの『縄文の風1』をメールで読み、最後に「皆さんもどうぞ語ってください。」と書かれていました。それに応えてメールを送った方がいると聞きましたので、私も語りたくなりメールを送ったところ一足お先に会員に読んでもらうこととなりまました。 縄文人に想いをはせる佐藤さんの夢に魅力を感じます。それはアイヌの人々に通じるし、坂の上田村麻呂と戦ったアテルイに通じ、中央の権力に抗して歴史から外された豊潤な文化への志向を感じます。それは、仏教伝来についても然りです。中央の華やかさに抗して、奥阿賀野にこそ本物があるんだぞと言いたくなります。 |
縄文の風2 |
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縄文の出会い、作品つくりに |
佐藤 賢太郎 |
現代は世界中でテロが起こり、国内では親殺し、子殺しの頻発、機で銀行を襲う、訳のわからないウイルスや病気が人間や動物に蔓延している。これはいったい何なのでしょうか。ある月刊誌に「政治家がホントウのことを言うと思うのは思う方が悪い。新聞やテレビが真実を報じると思うのは信じる方が悪い。」と意味深長なことが書かれていました。ともかく今ホントウのことが少ない、例えば何億円稼いだといった、勝ち組負け組の話しとか、私には内容の感心しない芥川賞の最年少受賞者が有名になったかとおもえば、ハルウララと報道するとみんなが騒ぐ、そこにどんな意味や真理があるのかと私は言いたい。さて、本題にようやく入ります。現代の人の生き方はおかしいと誰もが思っている。縄文有志は、だからこそ縄文に大切なものがあるのでないかと言う。そこが共通点です。正直申しまして、私は縄文土偶を調べようとして縄文文化を考え始めたのです。そこで作家として縄文人はどうしてあんな土器や土偶を作ったのか、作れたのか不思議でなりませんでした。
土器にしても土偶にしても精神そのものを形にしたようです。それは目には見えない魂からくるものを形にしたようです。現代の美というものをはるかに超えたものであり、恐ろしいものにも見える。それはインカ、アステカの彫刻にも共通しているように思える。土偶は目のないような稚拙と思われるものから、超前衛的なもの、それは、写実的に作ろうと意識していないようである。目に見えないもの霊というものを感じて造ったのだろう。そういう霊というものの存在、いや神という存在をまだまだ感じ方が薄い私にはそういう作品は作れません。しかし縄文を語るならば霊とか神というものを抜きにしては語れないと思う。そして縄文土偶は芸術を志すものに大切なものを教えてくれているような気がしてきたのです。私は彫刻家となって初めて、こんなところから森羅万象の存在を考える機会を頂いた。 私は今、数点縄文土偶から作品制作を手がけはじめました。なぜ縄文土偶から作品をつくろうとしたか、それは先ほど世の中、ホントウのことが少なく、むなしいことが多いと申しました。それに対する口惜しさと言うか反骨精神と言うかそういうものを秘めて、土偶から力を頂きながら作ろうとしているかもしれない。土偶はホンモノを語っていると思えるから 土偶の役割については縄文人に聞いたわけでないから解らないが、成熟した女性をモデルにして新しい生命を誕生させる力をもつ精霊あるいは、豊穣と子孫繁栄、安産を願って土偶を作ったのではないかと推測されています。今、私たち現代人はそのような生き方を遅れているとか、精神的にレベルの低い野蛮人のように思っている。とんでもないことです。遅れているのは現代人だ。人をだましたり、殺したり、カッコウばかり追う現代人。そして目に見えるものしか信じられなくなってしまった現代人の方が遅れているのではないでしょうか。人間の生、死、病気について科学者でも医者でもわからないことだらけというのが現実です。しかし現代人は何でもわかっているつもりでいるが私たちの方こそがマインドコントロールされているのではないか。解っていることなんてほんの少しだということを謙虚に見つめるべきだと思う。 |