2006.04.05
佐藤賢太郎
霊と再生の観念

私は人生後半の58歳になり、身近な人の死に立ち会う機会が増ふえた。両親の老いとその介護に追われ、いずれお別れの日が来るのもそう遠くはないなと感じる。両親ばかりか、私自身も血圧が高くなったり、手がしびれたりして病院に通うこともある。ラグビーをやっていた学生時代には、体調が悪いなどということは無縁のものであった。

私も年齢とともに、いつ、どうなるのか判らないと思うようになってきた。どうして病気や体調が悪くなるのだろう。死んだらどうなるのだろうか。肉体は死んでも魂は消えずに残るとも言われている。

私は病院の待合室で西宮紘著「縄文の地霊」を繰り返し読んでいるうち、難しいテーマだが、縄文人の「死と再生の観念」について考えてみることにした。そこには、現代の霊能力とか科学では解明できない霊の存在が必ずあるはずだし、縄文人は見えないものを感じていたのだろうと思うが、現代人にはわからない。

縄文人は、すでに、現代人が失ってしまった宇宙や自然から感受する力が鋭かったのだと思う。つまり、霊力とか魂の存在を敏感に感じていたのであろう。現代医学では直らない病気も祈祷や祈りのようなことで治ったということも聞く。

祈祷や祈りで治ることを私たちは笑えるだろうか。縄文に学ぶというなら、現代人の感覚でわからない事が多くあるということを謙虚に学ぶ必要があると思う。ところで、なぜ皆さんは神社にお参りに行くのだろうか。なぜ地鎮祭などをするのだろうか。先祖の血を受け継いでいる私たちであるからこその名残であろう。しかし、形だけでは、本質に迫ることはできない。

再生といえば、縄文人は住居入り口や女性のいる場所に死んだ子供の遺体を埋めていた。それは子供が再生するようにと願い、信じていたからだと聞いている。女性のスカートは霊が入りやすくるためのものだそうだ。

ところで縄文人はおしゃれであった。首飾りやブレスレット、イヤリング、入れ墨、櫛等を身に付けていた。しかし、これらは今様にいう美しく見せるためのものではないと思うようになってきた。

縄文人は鳥や植物や動物たちと心が通じ合う能力があった。特にその能力が強い人間がシャーマンと言われた。植物たちの精霊の言葉を聴く必要があり、イヤリングは植物の言葉を聞き取るためのものであった。

朱の櫛は火の精霊を表し、黒は地下を示す。つまり、黒髪に朱の櫛をさすことは死と再生を象徴していた。また、首や手首の関節に攻撃がくわえられると致命的であった。だから、首飾りや腕飾りをして、常にガードをしておく必要があった。入れ墨は霊魂の入りやすいところ、出やすいところ、たとえば目や耳、口、へそ、性器、尻の穴をガードするものとして施した。身につけていて動くときも機能的で、壊れることなく、便利なものであると西宮氏が言っているのも興味深い。


縄文人の作ったものの中に何のためにつくったのかわからないものが一杯ある。ストーンサークル、石棒、土偶、人間や蛙、蛇や炎のような土器その他。これらは皆、精神的、霊的な存在を固く信じ、再生ということを強く願ったのではなかろうか。絶対にと言い切れるほど確かなことは誰にもわからないのだろう。

その土偶についてはどうだろう。初め単純に豊饒を祈願し、病気を治すことを願ったとも言われるがどうだろうかと問いましたら。森幸彦さんからはそうではないという応えが返ってきた。なぜなら豊饒を願い病を治したいということなら、どこの村にも必要であるはずなのに土偶は限られた所にしか出てこない傾向があるとのことでした。

中部山岳地域では中期、関東沿岸部では後期、東北の河川流域では晩期、装身具も一般の集落からは出てこなかった。特殊な遺跡から多数まとまって出土していると、西宮氏も記していた。

さらに、西宮氏は土偶の放心したような表情はトランス状態に入った時の表情になっている。これは土偶が霊を入れる器であったからだということと、土偶の頭は悪霊が入りやすいような造形をしているとも言っている。確かに豊実で出土した土偶の頭のてっぺんが平らなので、何であんな形ののだろうかと思っていたところである。

土偶はほとんど壊れて出土している。それもある一部分が遠くに離れていることもあるそうだ。これは何を意味するのだろうか。いったい何のためなのか、治療や再生を願う心はあったのだと私は思う。何のための再生なのか、なぜ一部特定な所からしか出土されないのか。

縄文人は霊力のあるものを食べることによって自分の血肉と化して、その霊力あるものと一体になれると考えていた。祭りとは祖霊や精霊と一体化して超自然的霊力を身につける祭儀であった。

その食べる物を作る器が土器である。そうすれば土器は単に煮るための機能としての存在だけではなかった。そこにも再生という意味もあったのであろう。
再生のシンボルである生き物として、熊、いのしし、蛙、蛇などがあげられている。縄文人は死は再生を意味していたと言われるが、再生を信じていたのだろう。

霊力とか再生について現代人は関心が薄くなってきているが、私が小さい頃、正月には庭の柿木や水のあるところにもしめ飾りをしていた。それはつい昨日のことのようである。

私たちの祖先は人間であると思っているし、人間以外には考えられない。ところが、縄文人は木にも水にも石にも精霊があると信じていただろうし、自分の祖霊は人間以外の生きものもあるかもしれないと思っていたと西宮氏は言っている

きっと、そういうことはあるだろうと私も思う。ずっと以前にインドに行ったときのことである。アグラー城の頂上に上ると飼い主のいない1匹の犬がいた。その犬はじっと静かに遠くを見つめていた。その様子から、もしかしてこの犬は、かつて人間であったのではないかと思った。魂が再生して犬になったのだろうと。

人間の行動は自分の意思だけで決定しているものではないと思う。見えない霊的存在に動かされて行動することもあるのだろう。自分の行動にもそう思えるふしがある。

現代人は超自然と交信する力が弱くなったと言われるが、確かに、そうだと素直に思う。どんどん人工的につくられた物の中に生きていて、自然の摂理から離れた生活をしているから、感じる力、交信する力が薄くなっていると思う。豊実に暮らして、そのようなものを回復できればと願うのだが……。

縄文を学ぶことにより「霊や再生の観念」を考える機会としたいと思います