2020.6.27
外国人の友達観
佐藤賢太郎

南アフリカの18歳の青年がコロナで帰国できない。そこで私の家を見つけた。本人はビザが切れているのも知らないでいたが、ようやく延期の申請をした。私はその手続きを新潟の入管で手伝った。彼の身元引受人である。問題を起こしてはいけない立場である。
 18歳にしては優秀であるが、文化の違い、考え方の違いが持ち上がった。考えはしっかりしているが、18歳は18歳である。そして友達のお蔭で、病院の支払いも手伝って頂いた。ビザは第一であり、問題は解決しておくことです。

 今日突然5時に友達が来ることになった、もちろん私はそれが誰なのか知らない。それも20を過ぎた女の子で、午后5時30分以降に川でボートに乗りたいという。彼はみんなが見守る中、阿賀野川で乗ったいい気分が忘れられないようである。勿論私は「それはだめだ」と言ったら、彼は納得しない。アフリカでもっと危険なところでボートに乗ったし、彼女も泳げるという。そして彼は言う「屋根に上がって絵を描くほうが危険だ、絵を描くのも自由ではない」と不満げである。来る友達も誰なのか知らない。ボートを貸したのは誰か、責任を取るのは私である。あなたは何でも自由という、そんな身分ではない、ここは南アフリカではなく日本です。自己責任で教育されている彼であるが、描くテーマも指定されていることが不満のようだ。しかし私は彼を特別待遇している。

そこで私は彼に対する思いが変わっていしまった。嫌ならいつでもどこでも行くがいいと思った。来る女の子も親しい気分で、私を気軽に「けんたろうさん」と呼んでいるかもしれません。それに対して、私は開口一番「あなたは私にとって親しい友達でもない、知らない人です」と言った。私は友達でもない若年の23歳の彼女にそんな風に呼ばれるのは嫌いである。田舎では名前を呼ぶとき,同姓が多いので名前を呼びますが、彼女は村人ではないのです。そんな判断もできない女の子かもしれない。
 それにしても。外国人はちょっと話をすると、すぐ友達と呼ぶらしい。私はセンスがいいので彼を弟子にしてもと考えたが、別な意味でその難しさが解りました。