2010.03.16
味噌作りイベントでのこと
坂内克裕

 私は、イベント前日の14日17時前に豊実に到着した。事前に佐藤さんから準備は簡単だから夕方来れば良いと言われていたためだが、着いてみると雪で倒壊した味噌小屋の再築中で、骨組みが出来て屋根を葺いているところだった。
   明日作った味噌の桶を収納するために、明日の昼頃までには小屋を完成させなければならないという。私も急いで着替えて作業を手伝った。1時間ほどで、夕食のため作業終了。

 翌日は朝から味噌作りだったが、私は昨日からの流れで味噌小屋作りに従事した。そのため味噌作りについては報告できないが、昼食のとき、味噌作りの技術指導をした近所のお母さん方に聞いてみると、皆さん、家ではもう味噌作りはしていないという。

    我が家も農家なので、毎年味噌を、大人が2人入れるほどの大きな木製樽に一杯作って、一年寝かせてから食べるというのを繰り返していた。樽は3個あって、3個目は少し小さくて、余った古味噌を活用する味噌漬け用だった。東京の親戚などはバケツ持参で味噌や味噌漬けを持ち帰った。そんな我が家でも、時代と共に味噌の消費量が減って、味噌作りが1年置き、2年置きとなり、買ったほうが安上がりとなって、10年くらい前には完全にやめてしまった。

   コスモ夢舞台では、味噌作りをはじめて4年目というが、味噌作りの技術伝承という点でも意義があるイベントという佐藤さんの言葉にもうなずける。

 ところで、私は今回はじめて宿泊して前夜祭にも参加させていただくことになったので、お土産に東京大学産の「御酒(うさき)」という泡盛を一瓶持参した。
   これは、東京大学の研究成果の一品ということで、大学のマーク入の化粧箱に入れられ、大学の売店で販売されている。我が家には、東大卒の横浜の知人を通じてやって来たが、この「60年ぶりに復活された麹菌を使った」という泡盛には、興味深く長い物語がある。

 戦前の1935年、発酵学の世界的権威・故坂口謹一郎東大名誉教授が、研究のため沖縄の瑞泉酒造を訪れ、酒造用の黒麹菌を採取して東大に持ち帰った。
   その後、日本は戦争に突入。沖縄戦で、那覇の酒屋の黒麹菌は全滅。しかし東大の菌は、東京空襲時には教授の故郷の新潟県高田市に疎開して生き延びる。

   そして、1998年6月、東大の保存棚から、長年忘れ去られていた黒麹菌の保存瓶が発見される。1998年12月、戦前の泡盛復活のため、瑞泉酒造の黒麹菌は60年ぶりに里帰りすることになった。

   1999年5月、瑞泉酒造では、全生産ラインを止めて、一週間かけてタンクや機械、作業着やペン一本まで、工場のすべてを洗浄・殺菌のうえ原料米一トンで発酵に挑戦。事前の試験では成功率50%とされたうえ、現役杜氏には初めての菌なので、仕込み後、5人の杜氏が二晩の徹夜での手作業など試行錯誤のすえ、遂に成功。

   このようにして復活された泡盛は、1999年6月1日蒸留。取材陣約50名が見守る中、戦前の味を知る瑞泉酒造会長・故佐久本政敦氏の口から出た言葉は「昔の酒よりうまい」だった。父祖の酒に余計な名付けは無用と、銘は「御酒(うさき)」とされた。

 「御酒(うさき)」の黒麹菌は甘く柔らかい果実香が特徴。前夜祭に東京から駆けつけたふくろう会のメンバーにも、一口で「大吟醸のような味わい」「すっきりした口当たり」と好評を得て、同じく麹菌の助けを受ける味噌作りイベントには、打って付けの酒だったと思った。