2007.09.28
ワクワクする話

蛍の小川に一年中、水を流すためにはいろいろとやることがある。
水路の草刈や清掃はもとより、水の量を確保しなければならない。このところの晴天続きと稲刈りが終り、田んぼの水の元が止められ、極端に少なくなっている。
そこで、佐藤さんと一緒に隣の田んぼと分け合っている別の水源の水を農閑期の間いただこうということで、その作業をした。

入り口も出口も、水はチョロチョロ程度しか流れてないので、多くは期待できない。それでも、タンクが大きいため、ある程度の水が溜まっている。
何とそこにたくさんの魚が泳いでいる。アブラハヤでもないドジョウでもない渓流にだけ住む珍しい魚に違いないということになり、物知りのお助けマンFさんに写真を見せると「ボヤだ(地元の呼び名)」と一蹴されてしまった。

期待は裏切られたが、このとき佐藤さんが言った「この魚は流れてきたのではなく、ここで湧いたんだと思う」という言葉が印象深く残った。
「湧く」といえば、かつて、筆者の生家(九州・大分県の山奥にある)にはじめて家内が来たとき、この地に最初に住んだ人は、今のような交通手段もないのだから湧いて来たに違いないと言ったことを思い出す。

湧いて来たというレベルで考えれば、人間も動物、植物や虫も同じ立場のはずなのに人間だけが上に立っているような振る舞いを繰り返し、自ら苦しんでいる。
ヤマメの養殖に成功した人の話によると、ヤマメの野性を抜くためには、人口密度ならぬ、水槽内のヤマメの密度を高めることであると聞いたことがある。

ちょっとオーバーな言い方かも知れないが、テレビも新聞も殆ど見ることのない生活をしばらく続けただけでほんのわずかではあるが野性を取り戻せたのであろうか。
一木一草、みな必然があって生まれてきているはずなのに、人間の都合で生命をいただきますというおもいで今日も草刈を続けている。
                                 (御沓一敏)