2010.10.01
日出谷小学校のカカシ
佐藤賢太郎

9月28日、カカシを設置に日出谷小学校全校生徒と先生たちがやってきた。これで里山アート展に参加すること3年目であります。 

里山アート展の作品取り付けはいつもわいわいと楽しんでいたが、今回も私を知っている村の子供もいて、夏の暑い日、体育館で父兄とともに作ったカカシをリラックスした気持ちで取り付けることが出来たようであった。歩道の外に設置されたが賑やかである。     

カカシの存在はどんな意味があるのだろうか。自分なりに思うところを述べてみます。

 道行くドライバーは必ずカカシに気が付くだろう。何だ、これはと疑問は持たないだろう。小学校の生徒が作ったものだろうと、そう思うだろう。変なことをしているというより、里山アート展もカカシにより、地域参加型になってきたなと理解してもらえるだろう。

   今回は大学生もカカシを作った。そして地元の青年団やある旅館も参加する予定である。
 里山アート展は、それまでは解らないもの自分勝手なものを並べている、そんな風に見られていたかもしれない。ここに来て市民権が得られつつある。アートにはなじみがなかったところに、一歩一歩アートに触れ会う接点が作られつつあるということだろう。

間地紀以子さんと佐治さんが、小学生を参加に導いてくださった意義は大きく感謝している。いろいろな作家が参加して広げてくれている。                         

予断ですが、先日川に浮かべた作品が沈んでしまい、作品が見えなくなってとりあえず陸に揚げたら、その作家は「がっかりした。沈んで見えなくていいのです」と言う。私からすれば、古山さんと舟を出して苦労して設置したのに、その作家の制作意図はぜんぜん違っている。たとえばこのように、私にはできないことを考え行動する作家が出てくる。そのことによってアート展に広がりが出来ます。作家を受け入れる心がないと里山アート展は難しくなるでしょう。                              

しみじみ思うのは、作品があってと言うより人間が先であります。そういえばギリシャに行ったとき、文化人のリオシスさんが「芸術が先か人間が先か長い間迷っていたが、今、私は人間が先だと思う」と私たちにいった言葉が思い出される。

 少し横道に入ってしまいましたが、ともあれコスモ夢舞台が小学校の参加によって、地元に少しずつ受け入れられる機会を頂いているのだということを改めて思いました。