2018.08.28
吉田麻希さんのこと
佐藤賢太郎

 吉田麻希さんが来てから1カ月たち、去る日が来ました。彼女には秘めたる可能性があります。それは未知数で定かではありませんが、磨かなければ、平凡に終わるかもしれません。

 ところで、1カ月足らずではとても卒業証書を出せませんが、私は今朝3時に起きて、お別れに際して彼女について書くことにしました。それは、私の人生において、2度とないワンシーンになるかもしれません。それを一期一会と言います。

 彼女は何事もできないと言わず、ともかく恐れず挑戦します。全て初めての体験をさせました。彼女は映画を撮るのが好きで、昨年ワンシーンを撮りに我が家に来ました。失礼ながら、私は彼女のことは記憶にもありませんでした。その彼女が、あることで我が家に来てみようと決意しました。

 その後、彼女は「私はどうして豊実に来たのだろうか」と疑問を抱いたと言います。「無駄なことはない。唯、無駄にするのも生かすのも、自分の心掛け次第である」と私は言いました。

 彼女の豊実入りに際し、私は新潟に迎えに行き、早速翌日、田んぼの草取りをさせました。次の朝、驚くことに「私は自分の作った映画の編集で、やり残しがあるので今日帰りたい」と言うでありませんか。

来たばかりなのにと思いましたが、私は理解して受け入れました。

「今度来るときは一日で帰るなら、私は受け入れない。そんなに暇を持て余していません」と私はきっぱり言いました。

 彼女は小さいころから体が弱く、しかし負けず嫌いで、勉強家であったらしい。私には彼女は体力がないと感じます。映画を撮るというのは、人生をどう生きるかということだと思います。人生を勉強するなら、場を貸します、そして共に感動し合うことです。

映画づくりにかける彼女の情熱は分かりませんが、私は彼女に里山アート展の作品をつくることを薦めました。何と驚くことに、素晴らしい作品をつくるではありませんか。彼女は道具の使い方も、何も知らないので、私は彼女の手伝いをしました。

ところで彼女の作品の発想、これって才能ではないかと思った。そこで私は新人賞を設けることにした。

私は学生時代ラグビーに夢中になり、才能があるわけでもないのに彫刻家に夢を抱きました。そして、それをめざして走りました。

今は、「過疎に桃源郷をつくること、若者に希望を持たせること」に夢は変わりました。思えば、周り道をしてきたものです。でも、いつも一生懸命でした。そして追いかける夢は変わり、今に至っています。

 彼女は可愛いが、私は一度怒ったことがあった。怒鳴るわけでありませんが無視をしました。甘いからです。そんなことで、映画の何ができると言いたかった。私の里山アート展にかける、1年の日々の配慮、準備を学んでほしかった。

 9月15日に新潟大学の学生が来る際、「あなたの豊実での成果を示してほしい」と私は言いました。23歳の頃、私はこんな出会いはなかった。立派でもなく、何ら評価されるものはない青春時代だった。