2010.08.12
石舞台完成
佐藤賢太郎

制作し始めて6日目、石舞台完成を目前にした本日(8月11日)会員の飯野君(中学校のときの教え子)が来るという連絡があった。のどから手が出るほど即戦力が欲しかったので、出来れば午前中に到着してほしいと伝えた。来訪は飯野君の娘さんの希望で来ることになったのだが、彼はコスモ夢舞台に来るときはいつも作業を覚悟していました。

この日もひどく日差しが厳しかったが、午前中は村のIさんが手伝ってくれた。作業の先は見えてきたが、お互いに疲れがピークになっていたと思う。

フォークリフトを動かす私に大野さんがもっと右に前にと石を置く位置の指示をする。ところがフォークリフトが自由に動ける空間がない。一つ間違えたら大変なことになる。私は「そんなこと言ったって、いろいろ制限があって出来ないンだよ。フォークリフトのことがわかっていない」と大野さんに厳しい口調で言った。きつい中で、気力だけでやっているのに小僧っ子のように言われて大野さんもカチンときただろう。しかし私も遠慮するわけにはいかない。それだけ必死なのだ。大野さんがいなければ、石舞台作りは絶対出来ない夢の構想である。その大野さんも体力の限界だというが、此方も必死なのだ。

   案の定、最後の石を敷くところでまたもやフォークリフトが坂道バックでタイヤがスリップして動かなくなってしまった。なにしろフォークリフトそのものが6トンの重量です。一寸したことで動かなくなってしまい、仕事どころではなく脱出に時間が掛かってしまう。

この日は新聞社や新潟NPOネットワークの事務局の方の取材の日であった。挨拶もそこそこにフォークリフトの脱輪対策で、すみません、待ってくださいという始末であった。ようやく脱出できたときには、どっと疲れが出てしまった。

午後、飯野君到着。3時からは3人で作業が始まった。いよいよ目地つめに入り、本当に先が見えてきた。夕食時には食欲のない大野さんが前日とは別人のように元気になった。飯野君は都内で土木建設の会社に勤めている。今は主に現場を安全確認見回りのようなものだが、ここに来ると現場の一線、手足となって働く。一作業員になるが、彼はそれが面白いという。親の後姿を子供に見せられるいい機会とも言う。大野さんは「飯野君が来てくれたから、ほんの少ししか手伝えなかったと言うが、俺を元気にさせてくれた」という。   

大野さんは私と二人の食事なら、疲れたので帰ると早いときは8時くらいに引き上げる。今夜は遅くまで楽しそうに飯野君と話していた。飯野君は若いのに聞き上手である。新しい人間が入るということは新鮮になるのだろう。飯野君が神様のように思えたということをホームページに書いてくれと催促されたほどである。

確かに飯野君は若いけれど職人気質も知っているし、大野さんに対してもきちんと評価を(大野さんはすごいなどと表面的なことではなく)してくれる、なかなかな人柄である。

こうして多くの方々のお世話になって、石舞台つくりが終った。コンクリートをこねる耕運機が故障して一時はどうなるかというとき、85歳になるおじさんを呼び出し、修理していただきようやくエンジンは動き出した。これがなかったらギブアップしたであろう。当然のことながら、大野さんにしても私にしても一人で出来るものではない。天候の味方もなければ出来なかった石舞台つくりであった

私は経済的な生活のためでもなく、誰に頼まれたわけでもなく、勝手に夢構想を宣言して行動する。コスモ夢舞台はいつもこうして動いてきた。予算もなく自前で作り上げるしかない。言葉にすることは実行すること。しかしそれはいつも容易ではない。これまでも夢構想を実現してくれてきた先頭に大野さんがいた。いろいろな思いはあるだろうが大野さんは理屈で動いているのではない。私の生き方にも共感してくれているが、命令に従うのだったら動かない気質である。基本的には会員誰でもその気持ちだろうが、自分も輝き、自分の思いを出せるところにその原動力があるのだと思う。

さて本日(12日)午前、目地つめを完了した。(写真ご覧ください。)ここに佐山さんの作品を展示する。この舞台は作品展スペースでもあります)飯野君は最後まで作業を手伝ってくれた。石舞台は今後どんな展開になるだろうかと楽しみである。

 コスモ夢舞台は思い出に生きるのではなく、前進してこそ価値がある。今回の石舞台作りは(もう二度とこんなことは出来ないだろうが)その象徴であったと思う。