2007.02.04

戦争という仕事」を読んで2

農業を魅力あるものにする

農業につく若者が少ない時代、これは大変難しいが大切なここである。著書「共振」に人間は自分を見失い自然の一員になる事もできない。畑仕事はそのことを身体で感じ取る大事な修行だ。労働と自然が結び合う過程を失ったとき人間を支えていた大事な世界を喪失した。とあった。生徒たちは昨年体験学習に来て労働をした。体験学習として学ぶ価値はそこにある。いや大人の方が体験学習をコスモ夢舞台でして頂きたい。経済効率が悪いから農業はやらない、買う方がいいと都会の仕事に出てしまう現状である。

夢舞台つくりでの労働

  精神労働と肉体労働についてヨーロッパでは奴隷が肉体労働、高級なのがブルジョアの精神労働とされてきた。それもあってかアメリカの議員が大学で勉強しないとイラクに行く事になると発言し少し問題になった。日本でも勉強しないと道路工事の労働者を見て、子供にお母さんが、あんなふうになってしまうよ、と言った。労働とは低俗な事なのか、それなら夢はもてないはず。

 内山氏は日本的な労働観はそうでなかった。一見単純肉体労働の中にもさまざまな判断や工夫、自分の仕事に対する考察が伴っていた。と記していた。建設作業するふくろう会の中にはさまざまな職業の方がいて 働いている。それを見ているとまさにそれを感じる。自分お仕事が忙しい中、無報酬で、重働労働をしながらも帰って元気になると言う。ここに魅力があるのだと思う。ここでは学歴を価値基準にしていないから。その仕組みを作っているからだ。お互いが価値を認め合っているからだと思う。古木修治さんはこれをどう思うのだろうか。

「待つ」ということ

内山氏は上野村に暮らすようになって、待つという感覚がある。自然の力を借りようとすれば自然がつくるその時期を待たなければならない。人間関係においても自分の一方的な意志は万能でない。ちょうど良いタイミングを待って。とあった。私はこのことが生活の変化の中で切実な事だと感じ入って読んだ。

 資本主義は効率の悪い事は待たないと言う事になる。それに慣れてしまっているのでないか。縄文時代はそうでなかったのは確かである。現代の人間関係もそうであったらどんなにゆったりした社会になるのだろか。私はギリシャで自分の意思にかなわない事にも待つ、という大切さを(佐藤賢太郎)