2011.04.21
来たバスに乗れ
佐藤賢太郎

宇宙から見た地球は青く輝き、とても美しいそうです。宇宙は無限ですが、人間が住めるのは地球だけだそうです。特異で不思議な星に私たちは住んでいます。その私たち人間は、ほかの生物と同じように、宇宙の中で生かされている小さな生命体に過ぎないでしょう。

それぞれの人間には宿命というものがあるようにも思います。私がガンになったのも宿命で、別の言い方をすれば仕組まれていることかも知れません。これについては、川竹文夫さんの指摘のようにガンの原因であるストレスや食事、ライフスタイルなどさまざまなことに思い当たります。しかし、これらに関係なく肉体的に健康な方もいます。 

その点からしますと、私の場合は物事の真理を理解し、より善い生き方をするようにと与えられた宿命だと受け取っています。

 健康診断に異常がなければ、自分の見直しもしなく、これが最善といった生き方をしていただろうと思う。しかし、それは許されなかった。生死を分けるような病名に、これまでの見直しや新しい価値観を見出さなければならなくなりました。

それも、熟慮して動いたのではなく、後ろから背中を押されてというきっかけからです。今までの思いを捨て、素直に来たバスに乗ってみることにしました。

 私はこの度、秋田に家内と参りました。それは遠い道のりでした。しかし、今までの生き方を変えることを迫られました。自分をよりよく変えたいと願っても変えられないのが普通ですが、非日常的な体験をすることで、その入り口にたどり着くことができるかも知れないと思ったのです。

夢を追いながら、いつの間にか自然体から離れ、忙しい生活になっていたかもしれない。それがガンになったお陰で、日本海の磯の海岸を車で走り、美しい風景や数多く並ぶ風力発電のそばを走り、ホテルに着いた。部屋からは素晴らしい夕日を見ることができたが、近年こんなゆとりを味わうことはなかった。

 さて今回の目的は、今までの自分の価値観を少し脇において、新しい価値観を習得できたらとの思いからだった。人間の心はコロコロ変わるものですが、心を主体においているからそうなるのだそうです。私は心を高めようと30年間努力してきたつもりでしたが、進歩したとは言えません。

ところで、なぜ日本人は祖先の墓参りをするのでしょうか。それは縄文時代から死後に霊というものを感じていたからでしょう。人間は死んでも何もなくなるのではなく、霊の存在が残ると聞きました。心より霊を主体とする意識が大切ということが、強く印象に残った。それは、今まで知識としてはあっても意識はなかったに等しかった。

 縄文時代に比べ、現代人は物質文明を妄信するようになったと感じます。科学や医学、歴史などの妄信がある。縄文人は迷信を信じていたと言うが、本当にそうだろうか。むしろ、多くの妄信に囲まれているのは私たち現代人ではないかと思えた。

 また、徳を積む生き方、感謝する気持ちが大切と以前から知っていたが、今さらながらその重要性を思わされた。健康も物事の成就も全てそこから発しています。知ってはいたが、まだまだ実践ができていない私であります。

さらに、全てそろっている人間はいない。それを相寄り、相助け合い和した時こそ理想の世界が訪れるとの説話にも心が響きました。男と女、それは異質な存在が合わさって新たな生命が生まれ、また物事が成就する。まさに相寄り、相助け合いそのものであります。こんな分かりきったことができていない私でありました。それは何を主体にしているかが問題で、そこに進歩しきれない私があったのではないかと思った。

ともあれ、「来たバスに乗った」ことにより現代の迷信から距離を置き、少しは自分の新たな見直しのスタートに立てたのではないかと思います。