2011.02.02
単純明快に生きる7
佐藤賢太郎

7.祖先の生き方に習う

平成時代になって、特に日本人は昔からあった伝統行事を行わなくなりつつあります。田舎の豊実でさえ、そのようになりました。それでもかろうじて、歳の神や春祭り、秋祭りなどを執り行っています。戦後生まれの私もそうですが、神仏に対するお参りをする方々もすっかり少なくなりました。信仰心が薄らいでいることと、ご利益があるかどうかわからないのに、そんなことをしていられないからです。

かつて、日本人の祖先である縄文人は特別な思いで自然崇拝をしていたようであります。信仰心がとても強かったのだと思います。現代人が失った、何かを敏感に感じる能力もあったのだろうとも思います。

身近な事例ですが、父はかつて神仏に手を合わせていましたが私は都会に出たこともあり、そうした心を受け継がないでいました。見えるものだけを信じるのではない生き方も必要とは思っていましたが、郷里に帰っても仏壇に食事を添えるだけで手一杯でした。

ともかく忙しく、何ごとも急ぐ時代でした。ところがごく最近、私は神様に毎朝水をささげ、仏様にも食事を添えます。昨日はありがとうございました、今日も一日よろしくお願いいたします。ただそれだけですが祈ります。

これも私の心の見直しであります。効果あるもの、見えるもの、効率の良いことに対する私の見直しです。ゆっくり歩くような時間の過ごし方をしなければならないと気付いたのです。

それに、縄文人は感じていただろうが、人間は自然の一部であるという感じ方です。言葉では分かっているつもりの私でしたが、よくわかってはいないようでした。

それを食ということを通して感じました。食はただ腹をいっぱいにするためとか美味しいものを食べることだけではないということです。きれいな水や空気、農薬のない食物を食べること、それが循環して人間の体を元気にするのです。人間は草食動物であり肉食動物ではないこと、その自然の法則にしたがって生きることが大切であると感じました(牛に骨粉を食べさせると狂牛病になる例を見ても分かります)。

人間は他の動物とは違って考える能力が際立って高い。とはいえ、宇宙に行ける時代になったからといって思い上がってはならない。人間が細胞を加工して、人間を作るようなことに手を出すのはどうなのだろうか。人間は自然の摂理の一部でありました。自然の法則にしたがって生きることが、最も安定した生き方なのだろうと思う。

このままでは、またいろいろと想定外の病気が発生することになるだろう。