2009.02.24
日本に向けられたヨーロッパ人の眼8
佐藤賢太郎

リトアニアの写真家アウツーラスさんとエグレさんが、和彩館に20日から23日まで宿泊され、24日豊実駅から次の撮影地に向かわれた。その間、私は車で毎日同行した。モデルにもなりとても忙しかったが、終始友好な人間関係で彼らと語り合い、お別れできたことが家内ともども嬉しいことであった。小寺さんが帰られた後は、意思の疎通は自分がしなければならない。23日下越酒造に撮影に向かった。佐藤社長さんの暖かいお迎えをいただいて、見学撮影することができた。社長さん自ら麹部屋を案内され、酒ビン入れの実演までして下さった。この日は新聞記者田子さんも同行された。12時を回ってお茶を頂き、お土産まで頂いて帰ることになった。こうした機会に酒造会社の方と面識をもてたことはありがたいことである。

昼食前にアウツーラスさんが郷里の友人のために砥石が欲しいというので津川のコメリーに連れて行った。はじめ1500円の品物を買うのかと思ったが、そうではないらしい、粒子が1500番と言う意味らしい。ようやく理解できたが、1000番はあるが1500番がなかった。そこで、荒物屋に行ったがなかった。ふと前を見ると、もう一軒荒物屋のような店があったので入った。そこに仕上げ用の砥石があって、これが求めている砥石のようであり購入した。アウツーラスさんは、ありがとうと何度も感謝していた。そこでまた店主の撮影となりましたが、次の食事の約束時間があるので、「ハリー アップ」と促した。日本人でも、普通の人には理解しづらい買い物であっただろうと思う。

さて今日は、知り合いでもある赤湯のオーナー多田さんと昼食をとることになっていた。彼は赤湯温泉の撮影を許可してくれた方で、英語が得意でぺらぺらと彼らと話をしながら、新潟のここがいいといろいろとアドバイスをしていたようだ。私の方は、2時30分までには豊実に戻らなければと気が気ではなかった。というのは、アウツーラスさんのリクエストで家内が和服を着てお茶を立てている写真を撮りたいというのだが、その時間は今日の午後しかなかったのだ。

そんなわけで、猛スピードで家内がお茶を習っているお宅の茶室に向かった。既にセットされていて家内には2年ぶりのお茶会となったが、私たちが来る前に、神田先生に手ほどきしていただいていたようである。家内は初め和服を着るのも面倒だと漏らしていたが、ともかく家内が亭主となって茶会となった。アウツーラスさんとエグレさんは感動した様子で、興奮したのか汗だくの撮影だった。こんなチャンスは、なかなかないだろう。モデルを頼んでいたら大変なところだ。私は「あなたたちはとても恵まれている。ラッキーだよ」と言うと本当にそうだと喜んでいた。こんな田舎でお茶会をすることなど稀なのに、ともかく阿賀町だけでいろいろな撮影ができたのであった。神田先生にはお茶室を貸して下さり、家内の指南役までしていただき、心よりより感謝いたしました。              

神田先生は、前日の味噌つくりにも参加されていましたが、「まさか外国人がお二人で我家にお入りになり、撮影されるとは夢のようです」とおっしゃいました。仏壇や、刀の飾りに関心もたれそれを写す。神田さんは「きっとご先祖様が喜んでいる」とまた感謝してくださいました。茶会も終えて、歩きながら帰る和服の後ろ姿も撮影対象となった。ともかく彼らにとっては、かなり印象深い思い出になったようだ。

さて夕食の前に、福島県の温泉施設ロータスインに行ったが休みでがっかりしたが、ユーターンして赤崎温泉に行った。なんと車で1時間も走ったことになる。しかし、山の上にある温泉から見る風景にアウツーラスさんとエグレさんは感動してまた撮影していた。

私は、誰も英語がわからない風呂で彼に語りかける。のんびりと英会話の練習です。上がると老人に「何を話していたんだね」と聞かれた。こういうことを話していたと説明すると、「なるほどね」と解かったような顔をしていた。

一方家内は、そのころエグレさんの背中を流してあげたそうです。嫌がることなく受けていたようですが、大きい体だからさぞや時間がかかっただろう。ポルトガルの若い彼女たちと背中を流し合ったことを思い出し、そうしたのである。裸の付き合いでそれができるとはたいしたものである。ちなみに、私はアウツーラスさんの背中を流してあげませんでした。

さて楽しみながらの入浴の後、本日の夕食は最後の晩餐会となった。通訳はいなかったが、私たちはとても和やかに過ごせたこの4日間を振り返った。

朝になりアウツーラスさんが、「賢太郎は石の芸術家でマキ子さんは料理を創作する芸術家だ。マキ子さんが料理を作ってアウツーラスさんがその写真を撮る。それをエグレさんがプロデュースする本が作りたいね」とそのようなことを言った。私は「それは楽しい夢だね」といった。

   食事が終わりいよいよお別れの時間が来ました。駅のホームに上がり、車掌さんに家内は「英語が通じるから、外国人のお二人の乗り換えをよろしくね」と頼んだ。すると車掌さんは、「私は英語が話せません」といって笑った。