2007.1.28
佐藤賢太郎
冬に縄文の便り

EUジャパンの古木修治さんから日本経済新聞夕刊に5回連載で「縄文の声を聞け」と小林達雄さんの記事をファクスで送っていただいた。過去3回縄文シンポを開催し、ギリシャに縄文お思いを込めて作品をつくってきた、そのことで送ってくださったのだろうと思う。ありがたいことです。古木修治さん自身、拙著「ギリシャからの手紙」のあとがきに記してくださったように深く縄文文化に造詣があるからだと思っています。小林達雄さんの生い立ちやさまざま書かれていました。それも知られて良かったのですが、「考古学の研究者や学芸員さらに経済でもそうですが、自分の専門領域に閉じこもっていては狭量になってしまいます。」その言葉に実践と行動の学者の言葉に大いにうなずけるところです。最後に「我々が彼らから学ぶべきことはたくさんある」と結んでいました。あの忙しい先生が昨年春ス、トーンサークル作りませんかと豊実においでくださった。それはさておき新潟日報に縄文について小林先生に伺いながら大きく紙面を割いていた。印象に残っていたのは火炎土器のあの複雑な炎の土器は日常に使っていなかった。特別の日であっただろうと記されていたそれもなるほどと思った。

西洋でも縄文について関心が集ってきているようです。インド東洋哲学以前の人間の原点に帰る文化でないかと思う。小生もギリシャで縄文人の素晴らしさをたどたどしい英語で話してきた。知らない事ばかしで馬齢を重ねてきた私だが、日本人はもっと自国の文化を知るべきだと思った。ほこりを持つべきである。自国の卑下をする事が文化人と思うのはおかしいとも思う。自国の文化に誇りと言うと直ぐ軍国主義などと短絡に判断する、マインドコントロールされて日本人もいる。

正月村の人たちと一緒に神社にお参りする、又集会もある。そのとき縄文人もこうしていたのだろうと思ってしまう。
 内山節さんが魂と言う事について書いていた。魂は存在するのかしないのか。否定も肯定する証はないといっているが縄文人はそんなことは思っていなかったはずである。世の中の森羅万象は科学で検証できない事に成り立っている、説明がつかなくてそれを神としたか魂の存在としたか。人間が森羅万象の解明などできるわけがない、恐れ多いことである。解明できるとクローン人間まで作る。それで人間は幸せになったのか。科学、文明、見えること=神なのかとも思う。「ストーンサークルはなぜつくられたか」と言う本が完売したと小林達雄さんは書いていたが」読んでみたい。考古学が考古学にとどまっては面白くない。私の知っている考古学を学んだと言う人は生きている人間との心の通いが少ないとも思う。現代人の幸せに繋がる学びであってほしい。