2012.06.26
三度、東松島へ
佐藤賢太郎

6月24日東松島の元気印、大江公子さんの呼びかけで私と家内は奥松島チャレンジングストーリーに参加した。過去に何度も声を掛けられていたが、震災前は参加できるゆとりもなかった。なんの支援もできない私たちであるが、少しでも繋がりをもつ、それが私たちのできることであった。

言うまでもなく、東松島は津波と地震によって大被害を受け、港という港は壊滅状態である。そうした中、奥松島ふるさと協議会は元気を取り戻そうと奥松島チャレンジングストーリーを開催した。

朝4時30分豊実を立つ。思いのほか早く、私たちは現地に到着したので、港で漁師さんと話をすることができた。ここが津波にあったとは思えないが、漁師さんが言うには、海に浮かぶがれきの掃除にほぼ一年追われたという。ご苦労であったことは言うまでもないが、幸いここは島が多く、浸水はしたものの波の力が弱く家は流されなかったそうです。

そのうち漁師さんたちが集まってきた(私たちを船で案内してくださる船頭さんたちであることが、後で分かった)。束の間ではあったが、島で暮らす方々の様子が見られ、島暮らしの大変さを教えていただいた。島から出るには車に乗って船に乗って、本土でまたバスに乗って目的地にようやく着くこんな生活らしい。島から若者が去ってゆくのは当然である。

さて癒しの海に行こうというチャレンジングストーリーが始まった。3班に分けて船に乗った。かきの養殖場を見ながら寒風沢島に向かって舵は切られた。島に着くと、港は地盤沈下でコンクリートは沈み、すごい状態であった。ガイドの方が島の石地蔵を案内してくださったが、石仏めぐりのようでもあった。石仏の顔立ちもとてもよかった。昔は遊郭もあるくらいに、この島も大変にぎわっていたそうです。

奥松島市の基幹産業は漁業であるが、加工場と港は壊滅状態。直すには何億円もかかるという。港にはうず高くがれきが積まれ、復興は進んでいなかった。

船は港に戻り海の幸を食べるシーフードの昼食になった。とてもおいしい。私は刺身やウニは食べたかったが手を出さなかった。その代り私のためにと豆腐を出してくださった。参加者はとても満足のようであった。地元の馴染みの方も面会にと駆けつけてくださり、人の繋がりの大切さを思った。動かなければ人の絆はできないと、しみじみ思った。

さて、午後自由時間で案内の方についてこの周辺で一番高い丘に登ることにした。階段はかなりきつかったが、頂上に着くと島々の全景が見えた。修学院離宮の頂に上ったときのようであった。展望台では案内の方が、なぜここが津波の被害が小さかったかそんな説明もされていた。

午後3時からトークタイムとなり一人一人話をすることになった。グリーンツーリズムで知り合った、それぞれゆかりのある方々が川崎、横浜、埼玉、秋田、岩手、会津坂下町、地元、そして私たち新潟から、スタッフを除いて20名が参加していた。

震災後も厳しい状況は変わらないが、何と言っても1年半がすぎ、震災から目をそらしたい、そしてまた、忘れ去られることが寂しいという思いが交差する。そう思うと、こうして顔を見せ合い、交流することがいかに大切かということが良く分かる。

津波から「もうやめたい」という気持ちになったが、みなさんにお出でいただくことで「また頑張ろう」そんな気持ちになるようでした。地元だけでは元気は取り戻せません。外の力が大切です。

次回はコスモ夢舞台の会員に呼びかけて、ぜひ一緒に参加したいと思います。