2011.04.26
被災地最前線に行く
佐藤賢太郎

4月24日津波の被災に遭われた高橋さん宅の床上浸水の掃除に、会員の大野賢二さん御沓一敏さん、私の3人で石巻市へ行ってまいりました。

どうして私がそこに行くことになったのか。実は、私は地震の前日まで高橋さんの存在すら知りませんでした。震災前日、彼女は私の体を気遣って癒しのCDを送ってくれたのです。送ってくださった誠に心を動かされておりました。それは、同じ癌患者という事での知り合いでした。

そして地震です。長い期間、音信など取れませんでした。やがて生存していることが判りました。高橋さんと待ち合わせ場所やその他連絡を取り合いました。その日は折り悪く大雨との天気予報で、高橋さんから無理しないでくださいと再三連絡をいただきました。が、私はどんな雨になろうと行く覚悟は変わらなかった。何かに私は動かされているのでしょう。それがどうでしょう、天気は快晴になったのです。私は天の応援をいただいているというか、それこそ神の力をいただいている気になりました。

朝4時30分豊実を出発、高橋さんは石巻の待ち合わせ場所で待っていてくださいました。ところが車の渋滞や冠水のための迂回路続きで、ようやく自宅近くになると、逆さになった車やごみの山、瓦礫の細い道で車がすれ違うことができないこともありました。結局、高橋さん宅には10時くらいに到着しました。親戚の方などと合流し、全部で10名になりました。まず私たちは駐車場の掃除からはじめ、大きい瓦礫を寄せ、異臭の漂うヘドロを土嚢に詰め込む作業をしました。

自宅前に流されてきた家に、「この家は私の家でありません」と言う貼り紙もありました。勿論、車などは数多くあちらこちらから流されている現状でした。なかには、車が14台重なった光景もあり、驚くと同時に芸術的だとあきれてしまいました。

全国各地の警察官が見回りに動いていました。 所々にボランティア団体のようなグループも見受けられました。単独で支援に行きますなどといっても、それはできません。受け入れる相手がはっきりしていること、またボランティアメンバーに登録すること、それがなければ行けません。泥棒と間違われるかもしれないからです。残念ながら、そんな聞きたくない話もあるようです。

自宅の庭や室内の粗大ごみは、各自が道路近くに出すことになっています。しかし、その手間は大変です。支援していただくことができないところはそのままになるでしょう。日頃、いかに良い人間関係をもっているかが大きく影響することになるのでしょう。

さて、水道も電気も使えない、当然トイレもありません。集合した待ち合わせの場所以来トイレには行きませんでした(男性なら庭に「立ちション」もできるでしょうが)。ともかく、皆さん懸命に後片付けに汗を流しました。この日が土砂降りだったら、どうなったでしょう。

私たちは食事持参で、皆さんの分も持ってゆきました。近所の方もおにぎりをもってこられました。午後3時ころになり室内の泥かきをしました。きれいになっても、床の張替え、腰板の張替えなどこれからが大変です。

室内には何も無いので、冗談に「この家には冷蔵庫は無いですか」というと「買ったばかりの冷蔵庫は流されました。車も2台流されました。代りによその車が3台流れてきました」とご主人から答えがありました。

食料や衣類などの物資をともかく届けたことで、まったくの他人から支援を受けたことに感謝されました。私は「私が買ったものありません。EU・ジャパンフェスト日本委員会の方が集めてくださったものです。これは会津の方が下さった卵です。それを保管してくださった坂下の方々がいて、私たちはただ届けたまでです」と申し上げました。  

まだまだ掃除は終わっていませんでしたが、夕刻はものすごく渋滞するので早く帰ったほうがよいと諭され、帰ることにしました。喜んでいただいたことに、さわやかさが残りました。人と人の信頼はいかに大切かを、しみじみと感じました。

さて、その夜はトラックに持参した寝袋で休む覚悟でした。ところが、グリーンツーリズムで知りあった東松島市の大江さんが、是非私の家に泊まってくださいと言ってくださいました。3人もいる私たちを暖かく迎えてくださり、風呂まで入れていただきました。そして店も無いなかで、私の大好きな刺身、海の幸を揃えてくださいました。

さらに奥さんと娘さんを亡くした菅原さん、何億円もの損失をした漁師の大友さん(以前私たちに生カキをたくさん持ってきてくださいました)、床上まで浸水された職人の木村さんが集まり、酒盛りとなりました。

大江さんは「佐藤賢太郎さんはギリシャで彫刻を作った方」、と私のことを宣伝して集めてくださいました。ともかく、この席には悲壮な雰囲気はなく、物資支援の手伝いをしてくださったことに感謝されました。ここでも、お土産はUE・ジャパン、奥会津書房の遠藤さんからの品々でした。私はここでも運んだだけでしたが、感謝されました。 

そんな中で「一人死ねば悲しむが何人も死者が出ると涙も出ません。また限界に来ると人間の素性がはっきり分かれます。豆腐を二つに割ったように、その行動は別れます」そんな言葉が印象的でした。

大江さんには遊びに来てくださいと言われておりましたが、こんなことでしか行けなかったことは申し訳ありませんでした。そんなに深い付き合でもないのに、本当に歓迎してくださいました。翌日、朝ごはん後に会わせようと女性を呼んでくださいました。 

ともかく、よい人間関係を作ることの得意な大江さんでした。職人さんのうちに寄せていただき、ご主人の仕事振り、奥さんのもてなしを見てくださいといっていただきました。

その後、被災後の地域に案内してくださいました。松林が広がっていたのに跡形も無いヒルタ地区の海岸近くに案内されました。何もありませんでした。ここには家が沢山立ち並んでいたそうです。10メートルもあろう松の高さまで津波がかぶる自然の猛威を想像するのは恐ろしいことです。

その海辺に(我が家にもこられた方)民宿望洋荘の方が津波で死亡され、屋敷は跡形もなくなったそうです。「この辺だったかな」と、大江さんは涙を流されていました。 

自衛隊車がひっきりなしに走り、ごみと埃、瓦礫の処理をされていました。ここにはもう、住んではいけないそうですが、代替地はどのように手に入れるのか、そして海苔業者は何億円もかけても再開の見込みか立たないそうです。難しいことですがこれからはコーディネートする人間が必要ではないかとも言っていました。こうした現場を見せていただけたのは大江さんのお陰でありました。

一切を流された方々は、車を再度買わなければなりません、冷蔵庫もほかの生活用品もすべてそうです。それらを保証金では買えません。支援はこれからでしょう。難問は山ほどあります。

人間はどのように生きることが仕合せなのか。それを考え、またどのように人間関係を作ることがいかに大切なことかを思いました。この災害を通して人の繋がりを高める機会をいただきました。それは現地に行けた方ばかりでなく、後方支援の方も含めてであります。

今後、私は被災された方たちと相互交流し、付き合いを深めていくことになります。助け合いながら、信頼しあいながら、人間にとって大切なものを見出してゆきたいものです。現地に行けなくて済みませんという方もいますが、そんなことはありません。

それぞれの役割分担です。同じことはできません、後方支援があってこその行動も生まれます。

コスモ夢舞台は、支援物資も義捐金もこのように顔が見える形、人間交流の信頼関係ができるところに使いたいと思います。