2017.11.21
米山知事さんと会う
佐藤賢太郎

私は期せずして新潟県の米山県知事さんとお会いすることになりました。大要、以下のようなこのようなことを話し、県知事さんに聞いていただきました。そして知事さんの見送りの時、「この地域見て頂けませんか」と伝えました。 

私は新潟県でも一級の過疎地に住んでいます。今年、私は69歳になりましたが、自分の人生において今が一番「人生を輝かせるとき」と思っております。 

39年前、私は埼玉県の中学校の教師をしておりました。尊敬していた彫刻家の先生から弟子として歩まないかと言われ、教師を辞めて彫刻家に転職する決断をしました。

苦労して大学まで出してくれた両親を嘆かせましたが、私は34歳の時、師匠の住む愛知県岡崎に夫婦で参りました。

修行は彫刻の勉強というより、人間修行の様でした。彫刻家として生活する難しさを知り、その時は後悔もしました。師匠は厳しい方でありましたが、私はその修行を乗り越えることが出来ました。

彫刻家としての修行を終え帰るとき、「苦は乗り越えるところに意味があり、乗り切ったとき、感謝に変わる」そんな実感が湧きました。私たちは3年で修業を終え、独立し、埼玉に戻りました。待っていたのは、彫刻家として苦労の連続でした。いくら友達に支えて頂いても、年収100万円でした。両親から米を送ってもらいながら生活しました。スタートは前途真っ暗でしたが、時がたち、有難い人の出会いや、全国からモニュメントの制作依頼や有名デパ―トからの企画個展などがあり、少しずつ先が見えてまいりました。 

2006年欧州文化首都芸術祭がギリシャで開催されました。その芸術祭に、私が日本人の彫刻家として招聘されました。ギリシャ語も英語もわからない私でしたが、開催地の副市長と親しくなり、彫刻を制作設置して参りました。

帰国後、私は郷里の新潟県にUターンを決意しました。その後、当地のギリシャの副市長から、あなたを名誉市民にするので、もう一度来ないかと依頼され、私は2014年に再び彫刻を制作してまいりました。

 話は前後しますが、私は郷里に関東の仲間と共に「魅力ある田舎づくり」を懸命に推進しております。ところが2010年、私は最大のピンチに襲われました。私はガンを宣告されました。私は治るために、友人の勧めで一生懸命に勉強しました。3年後、手術、抗がん剤、放射線も使用せず、治しました。今、生きていることに感謝です。以来、家内が運営するレストランのメニューを玄米菜食にすっかり変えました。 

ところで、「ウーフ」という制度が世界にあり、エコな暮らしをする方がホストとして登録でき、そのホストの手伝いをすれば、無料で泊まることができる制度があります。現在新潟県で登録しているのはわが家だけなので、今年度は外国人が12人も滞在しました。ホスト5年目になりますが、年々多くの外国人がお出でになります。そして、たくましく「豊かに生きる生き方」を伝えています。 

一方、国土交通省の「地域つくり表彰」に全国の県より推薦された67団体から、私たちのNPOがベスト8に選ばれました。これは凄いことです。ベスト5に入れば受賞です。私は最終選考会を兼ねた国土交通省のプレゼンテーションに自信を持って出かけました。 

しかし、ベスト5に入りませんでした。人口減少の一途をたどる田舎に、若い方が夢をもてるようにしたかったのです。私は受賞を逃しましたが、あるものを生かす「循環、再生、創造」の手づくり精神で「魅力ある田舎づくり」を続けることは今後も変わりません。生き方に本物の魅力があれば、いつか人は集まります。 

そんな折、私たちのコスモ夢舞台のホームページを見て、若い女性がお出でになりました。コスモ夢舞台スタッフになりたいと言うのです。私は大いなる希望をもっています。仲間と共に20年かけて創ったコスモ夢舞台をベースに、若者が希望を持てるように致します。彼女のためにも空き家を活用し、仲間と力を合わせてリフォームしました。また外国人や移住者の生活をサポートしております。

昨年より県外からの移住者もおりますが、若手が移住することによって、さらに大きな力になって行くだろうと期待しています。 

魅力を作るとは、単に経済効果を上げることが最終目標ではなく、「我も人も仕合わせな生き方」を目指すことが肝心であると思うのです。