2017.03.18
見えないところ
佐藤賢太郎 

今や「コスモ夢舞台」は家内がいないと成り立たないと思います。

なぜならば、体によい美味しい食事と良い人間関係を抜きに、コスモ夢舞台は語れないと思うからです。家内は、その重要な役割を果たしてくれていると思います。 

ともかく、和彩館にいろんな方が来訪されるのに伴い、それに適切に対応しなければならないようになりました。日本人はもとより、言葉が通じない外国人とも、笑って仲よくやっていける度量が必要です。

我が家にやって来るある方が、笑いながら「どうしてそんなに経済的にも上手く回るの? 俺はそれを知りたくて、ここに来るのだ」と、冗談ともつかない言葉を発します。

きっとその方には解らないでしょう。家内には、見えない努力の積み重ねがあって、今日があると思います。

 その見えない一例として、全く見ず知らずのお宅に、伝えたい冊子を持って出向き、自分という人間を買って頂くという訓練を長く続けてきました。これを頒布実践と言います。買って頂くと言っても冊子を売るのではなく、自分の人柄が売れるかどうかであります。 

たとえ有料で冊子を買って頂いても、一円の金銭的利益にもなりません。全くの無償です。

つまり、見ず知らずの方と会話が成立する、相手と話ができるということです。勿論、どの様な方とお会いするか分かりません。引き際も、相手によって素早く判断するのであります。この訪問にはベテランも新人もありません。まして、学歴などをひけらかしても相手にされません。当然相手は見ず知らずですから、肩書などは通用しません。相手の価値基準は、その方の第一印象、人間性だけです。相手は千差万別、相手を選んで訪問するのではありません。この人は人間として安心に足るかどうかを家内は見極められてしまいます。 

例えば私は、画廊に行けば画商さんにとって彫刻の先生です。しかし、頒布実践の時はそんな肩書は通用しません。ただの見知らぬ人間が立っているだけです。先日、郷里に戻り、私も意図的に、自分の通用しないところで頒布実践をしてみました。頭を下げると、容赦なく面倒くさそうに門前払いをされることもあります。こうした体験は数十年ぶりでした。人はともすると、経験を傘に自分が通用するところに置きたがるものです。この体験で得たものは、

1.自分を知ること、感謝を知ること

2.見返りの無い働きは清々しいこと

3.いつもと違う感覚で相手と対応する
    などなどでした。

こうした体験をもとに、これからも「コスモ夢舞台」の夢を築いてまいります。 

最後に、ギリシャでの困難の中で、格闘した彫刻づくりを思い出しました。私は死ぬまで夢と挑戦を持ち続けてまいります。