2011.04.10
お別れ
佐藤賢太郎

私は母が会津生まれで会津の血も流れています。その会津で彫刻家として私の人生に影響を与えて下さった会津葵会長五十嵐大祐さんが91歳で逝きました。
   農林大臣賞、運輸大臣賞、国土長官賞文部大臣賞や園遊会ご招待など活躍した五十嵐さんに式場は長蛇の列でありました。お焼香が始まり遺影の前に立つと私は思わず涙があふれてきました。

作家として独立間もない若かりし時、私はこの方にどれだけ大切にしていただいたか思い出されたのです。私がお店に行くと必ず自宅から駆けつけて下さり、心のこもったもてなしをいただきました。

今から25年前、彫刻家として独立したばかりのころ、道に迷い鶴ヶ城のお堀を歩いていると、シルクロード文明展というポスターが目に入りました。こんな田舎にシルクロード文明展などあるものか、そう高をくくって会津葵の菓子店展示場2階に入りました。あっと驚きました。本物が並んでいます。私は感動して、その遺跡作品を見つめておりますと当時社長であった五十嵐大祐さんが私に「何をしているの?」と職業を聞かれました。「石の彫刻家です」と答えますと強い関心を寄せてくださり、以来私を作家として大切にお付き合いをしてくださいました。

私は恥ずかしながら会津の歴史をろくに知りませんでしたが、会津にこんな博学で美術コレクションをお持ちの方がいることに深く感銘いたしました。ご自身の宝の一つは、お堀にたたずむ伯爵の別荘であった茅葺屋です。古めかしいその茅葺の天井に、お堀の水波が映る様はすこぶる風情があった。
   私はそこに何度も上げていただき酒食をいただきましたが、まことに贅沢の極みでした。また聞きますと五十嵐さんはホテル事業に大失敗し夜逃げをしましたが、持ち前のアイディアで極上の菓子を作り今日に至っております。

当時蓮田市に住んでいた私が会津に行くと私のためにホテルを取ってくださり、時間の許す限り話をいっぱいしてくださった。私が行くと歴史の裏話やスパイとして国籍を消した人物、五十嵐さんの友人たちを引き合わせてくださいました。また町並み保存会会長として、町の復興には歴史あるものを保存することが必要であることなど、さまざまな話をいただきました。

五十嵐さんとは思いで深いことが沢山ありますが、蓮田市に住んで作家活動をしているころ、阿賀町鹿瀬の古澤屋に二人で泊まりました。その夜、寝るまで「賢太郎さん埼玉などにいないで豊実に帰って来い」と熱心に説かれました。以来、会津を訪れるたびに「田舎に帰って来いよ」の一点張りです。

用があれば人を呼べばよい、画商さんを呼べばよい。田舎こそが桃源郷だという。私はいささかため息をつきました。会津若松市と豊実では、立地が違うと私は思っていました。

月日は経ち、コスモ夢舞台のシンポジウムで「会津の歴史を語る」で講師としてお出でいただきました。頑固一徹の五十嵐大祐さんは、こんなことではだめと私たちの活動を否定するようなことを言うので、私は時にむっとなることもありました。

昨年暮れにお会いした時は、お元気でした。「賢ちゃん、俺は未だ夢がある。それは陣屋を復元すること。一億円かかるので家内と息子が反対するが、これに勝たねば死にきれない」と言っていました。
   そこで私に肯定した言葉が思い出されます。「賢ちゃんのように見習うところがあるよ、それは陣屋の復元にボランティアを募り建設することだよ」それが唯一ほめ言葉だったかと思います。

   図らずも私は田舎に帰り、多くの人をこの田舎に呼び、画商さんも来てくださいます。そして五十嵐さんの十分満足に至らないかもしれませんが、「現代の桃源郷コスモ夢舞台」を立ち上げてことがせめてもの恩返しでないかと思います。

今思い出すのは、五十嵐さんはともかくいろいろな方とのお付き合いがありながら、私のようなものにもすごく優しくもてなしてくださったことです。人にはいつか別れがありますが、私もこの世で出会った人びとと心深い付き合いをしたいものだと肝に銘じています。合掌。