2011.01.02
野良猫
佐藤賢太郎

私は猫をモチーフにして作品を作ることが多い。蓮田に住んでいたとき飼い猫として2匹飼っていた。一匹は死に残りの猫を豊実に連れてきたが悲しく死んでしまった。猫は家に着くというがそのようである。

豊実で野良猫が我が家にやって来た。ようやくなついてきたが猫交通事故で死んでしまった。そして昨年夏ころから我が家にまた野良猫が寄り付いてきた。家内はかわそうと「ミーちゃん」名づけ、餌をあげるようになった。猫は怖さをこらえて距離を保ちながら餌を食べていた。その距離は少しずつ近づいてきた。

   冬はどうするのだろうと少し心配していた。村に野良猫がこのほかに二匹いるよ

うであった。それどれ必死に生きているようであった。あっちの家こっちの家と渡り歩いて餌を確保しているようであった。この後姿を見ると必死に生きる運命を感じてしまう。

ところで我が家に来ているミーちゃんは朝になると雪の中をどこからか、勝手口にやって来ては「ミャーン」と餌の催促をする。この家に来れば確実に餌をもらえると解り来るのだろう。いとおしくて、つい餌を上げる。この猫を想い作品ができるのかもしれない。

すると我が家の飼い「チロ」はわめく。「どうしてそんな猫に餌を上げるのか」と言っているのか解らない。この世に生まれて野良猫になるものもあれば飼い猫になるものもあり、それこそ自分の意思に関わらず生れ落ちたときから運命が待っている。
   この点では決して平等などはない。そこからどう生きるかはその猫の努力次第である。この点では平等である。

   人間も同じでなかろうか。自分も日本に生まれたか、テロが頻発する国に生まれたか、かの独裁国家に生まれたかでは雲泥の差があるようだ、それは運命でもある。

おしなべて思うのは、私は豊実の佐藤家に生まれた運命、そして今出会う友人たちとの縁において、生かされている時間どう生きるかにかかっている。