2010.03.06
制作のおもしろさ
佐藤賢太郎

昨年火焔土器を石で制作をした。ブロンズでもない。石は粘土に比べると制限がある。造形も細く薄くということになるとブロンズのようには作れない。私はこの制限のある石によって助けられている。

ところで火焔土器は複雑で、薄いところや穴があったりして、とても硬い石では粘土で制作するようにするのは不可能に近い。第一、石を素材にしてレプリカのように復元し

てもおもしろくないものになるだろうし、作っていて退屈してしまう。

私はたびたび思うのだが、石の制限の中でおもしろい形が生まれ、それが私の作品を助けてくれると思っている。今回の火焔土器制作も、変形三角柱という制限の中にあって制作がスタートした。この中にどのように火焔土器を組み入れるのかとても難しい。大きな大理石のような素材を与えられたら、きっと焼き物のようなレプリカになってしまっただろう。

制作しながら考え、決まってゆくことがある。それは石との対話である。
   対話しながら作品は、曲線と直線、曲面と直面の組みあわせになってきた。本物の火焔土器には平面などはない。しかし私は今、手に入る石の制限のなかでそのようにしようと考えた。これが結構おもしろい。絵画のように平面あり、立体あり、曲線あり、見る角度によってそうなるなど、素材を自由に与えられたとしたら私にはとても考えられない。

変形三角柱の2面の造形は決まった。さてもう一面はどうするか。一部、何も作らないで石の割り肌そのままにしようか、そのほうが作品としてのおもしろさが出るのでないかとも思っている。
   縄文人がなぜあのような自由奔放にしてエネルギッシュで創造的な造形が作れたのか、驚かされる。まさに芸術家である。それに比べ、私は創造的でないと思わされてしまう。

不自由さや制限のある中でどう生きるか、人生も同じ視点から見たらおもしろいだろうと思った。