2015.08.09
吉田さんの里山アート
佐藤賢太郎 

吉田冨久一さんが、里山アート展参加のために8月7日豊実にやってきた。ご自身がつくったドラム缶による炭焼きをすることになった。炭焼きをする材料は、馬取川の河口に繁茂していた雑木である。2年前に炭を焼いたが、うまくいかなかった。空気が入って、炭化する以上に燃えてしまったようだ。その反省を踏まえ、チャレンジした。ご自身が言うには、「造形を残すのだけが芸術でなく、形も何もないことが芸術である、つまり行為が芸術である」(そのことについて後に触れます)。これでは、一般の方だけでなく他の作家も理解しがたいと思うが、私はこの作家から学ぶところがある。 

吉田さんは若い時代に新制の公募展に参加していて、とても斬新な絵画を描いていた。モダンな造形で、私もそれなりのものを感じる。その後、造形作家として各地で活躍していた。自信に満ちていて、常にチャレンジし変化している様子がパソコンで見せてくださった作品により伝わってきた。

しかしながら、その生き方は地位とか名誉とか収入に縁遠くなる道であった。今も一心に歩む彼は、自分の信念とする芸術に向かっている。彼も初めからそうではなく、地位や名誉も考える世間一般の価値観を求めていた。純粋性を求め、またある契機から、そのようになったと思う。人生の分かれ目は微妙である。彼が言うには「病気ですね」と笑いながら言うのである。

「造形が残らない作品」と申しましたが、炭焼きをする行為が芸術であると彼は言います。それは再生循環が炭焼きにあるからです。炭焼きのためにわざわざ豊実に来て、しかもこの暑い中、汗を流し窯の周囲を平らにする、その行為はやらされていると思うならできることではない。とかくそんなことは誰かがやって、造形だけつくることが芸術家の仕事だ、そのように考える方が多い。 

そこで私は新潟大学のダブルホームGホームの学生は、里山アート展に参加することでぜひ学んでいただきたいことがある。なにも感じられないようであったら、20歳代の年齢だとしても、あまり付き合いたい人間ではないことを明言する。見えないところをやることが芸術だと吉田さんが言っているように、里山アート展の見えないところも感じられるような学生になっていただきたいものです。いわゆる作品となるのは表面の一部だけである。このことは学生だけでなく、里山アート展に参加する方々全員に言いたいことでもある。 吉田さんの作った炭を展示しようと思う。炭そのものの飾りではない、その想いを展示する予定です。私は言うまでもなく、すべて吉田さんにと合致しているわけでないがとても彼に理解できる一面がある。