2018.04.02
生徒たちとの話
佐藤賢太郎 

自主的に訪れた生徒たちが帰った。よほど疲れたのか5人の生徒は寝坊し、ギリギリの飛び乗りで列車に乗った。もう一人の生徒は5時の一番列車であり寝坊しなかった。 

生徒たちは、私のことを師匠と呼んでいた。生徒が相談してそう呼ぶことにしたそうです。なぜ師匠と呼ぶのが適当なのか、私なりに解釈して、逆に生徒たちに説明した。

先ず、「賢太郎さん」では対等である。「生きる師匠」であり、それに何となく可愛げがあっていいと思う。

前日、私は危険な作業をした。それを生徒たちが見ていた。疲れても最後までやりきる。そんなところが師匠と呼ばれるにふさわしい点だと思う。 

前夜、私と家内は生徒たちと話をした。

家内は、二十歳の時の北海道旅行の話であった。根室であったか、二人で旅行したそうです。行き着いたところは田舎であったそうです。この辺に泊まるところはありますかと、地元の方に聞いたところ「こんなところに泊まる所はない。良かったら我が家に泊まりなさい」と案内してくださったそうです。

家は狭く、子供部屋にお父さんが作ってくれた二段ベッドがあり、子供たちは親と寝たそうです。翌朝、新鮮な秋刀魚をいただき、親切に周囲を案内していただいたそうです。そこがどこか、今は記憶になく、そのお父さんが生きているかどうかも分からない。

しかも家内たちは、お礼にお金を出そうとしたら、お父さんは「そんなお金はいらない、ここはホテルではない。親にお土産でも買って行きなさい」と、断られたとのことでした。

 家内は「そのことは今でも、記憶が鮮明にあります。その人に返せないが、その分あなたたちに恩を返したい」と、二泊三日無償で泊めたのであった。家内は最後に「大人になったら、人の役に立つ人間になりなさい」と結んでいた。長い人生で辛酸を味わった、生きる先輩の言葉であると思う。