ソーシャル・キャピタル
地球主義による夢の実現
吉田富久一

. アートファームでの苦い思い出

 過疎問題とアートファーム計画

 豊実へ訪れる度に思い出すことがある。20年も前のことだが、妻と共に仲間へ呼びかけ、群馬県高山村の寒村に少しばかりの耕作地を借り、アートファームの開設を試みた。農耕をアートの基準に据え、農事に就労しながら現地と都市との間で交流し豊穣を分かち合うプログラム。しかしながら、構想こそ善かれ、若気の至りに勇む思いは空転し現実の壁に打ちのめされた苦い経験である。

 実に、村は深刻な過疎問題に直面していた。先祖代々受け継いだ土地、あるいは戦後引揚者の開拓で食糧増産を目指し苦労されて開墾した農地。これらの耕地が荒廃の一途を辿っていた。高度経済成長に伴って産業構造が変化してしまうと、多くの若者は都市部の企業へ就職し、農家は跡継ぎを欠いていく。これを如何にして食い止め田舎資産を今日に繋ぎ、将来に活かせるか。村再生の模索がそこにはあった。 

 我々は、その三年ほど前からアートハウスを設立。他者(自分以外の作家)の企画展を開くことによって、アート活動を個人制作の域に留めず社会的定位置を確立し、現代アートの浸透を地域活性に結びつけたい夢を見はじめていた。

 初年度のアートファーム計画ではアートハウス活動の一環としてすすめ、農事とアート活動を創意工夫し、会員間の地理的距離を乗り越えて結束し、収穫と創造の喜びを共に歓喜する理想を描いた。達成できれば次の段階に駒を進め、農耕のサイクルに合わせて都会人の参加できる農体験イベントを組むことで、将来的に村の人手不足を補填すると同時に、社会の病みに悩む都会人の癒し願望をも満たせる。この事業はさらに多くの人たちの支持を集められるだろうし、持続可能な営みとして村に定着可能かもしれない。相互に質の違う不足を交換する企てで、アートの社会貢献が達成されると考えた。

 そして、村当局が進めていた財政の増収を当てにした観光企業誘致の政策に対抗しようと、農事体験にアートを絡めた「都市—農村交流」の新事業の創出を提唱した。

 空転する「創造想像妊娠プロジェクト」

 そもそも農事への興味はアートハウス活動を共にしてきた妻の願望であったが、たまたま私のかつての教え子にこの地の旧家の倅があり、彼の親父から地主の紹介を受けることでアートファームは始められた。

 その頃、私は方や教壇に立ちながらの作家活動に邁進し、大きな展覧会を抱え野外作品の制作に本腰を入れていた。そこで農耕実践からは外れていたが、実は「作家にとっての農耕は制作だ」という持論がもとにあった。妻は草木染めや自然食材の探求から農耕願望を持ち、遠隔地の不利を押して毎週末、高山村の農園へ片道40キロ程の道のりを往復する。しかも幼子を3人抱えていたのだが。また、別の教え子で美術大学を出たばかりの青年をひとり、農事小屋に常駐員として置いた。彼は高校の非常勤講師の傍ら、地元の国立大学の美術教育学を専攻する大学院生を兼ねていた。

 このチームにおいて、妻と青年はアートファームの実践者であり、農耕を営みながら「創造—想像妊娠プロジェクト」なるアート企画を立ち上げ、農事計画を組みながら定期的にレポートを配信。アートハウス会員(ドクター役)から検診を受けつつ、十月十日後に各々が論文と作品の形で成果を発表する手はずをとった。私は渉外係兼相談役として協力し、地主と革新系一村議と和合し、荒廃農地の実践的有効利用を提唱、村議がその成果を見ながら議会へ提案する役目とした。春の開園祭には関東一円に散る会員が集まって鍬入れが行われ、本企画がスタートした。夏にはこれを援護するように、私を含め他の会員により提案された二三のイベントが組まれた。

 ところが、どうしたことか本企画の方はレポートの一切が発行されず、会員の誰もが検診にあたることのないまま時が過ぎ、秋の収穫祭の当日を迎えるに至る。 

 その日、プロジェクトの農耕担当者(妻と青年)の他に、立ち会ったのは私(ドクター役のひとり)だけ。アートハウス始まって以来の最悪な状況である。 

提出された論文は前文で止まったままの粗稿のみ。作品は、このプロジェクトに深く絡むこと無く創られた一点。口頭発表はそれぞれの論説はあったが、初期的な概念論に留まっていた。突き詰めると夫々が己の個人的ドグマに執着していた。彼等は、「やりたいからやった」、「つくりたくてつくった」、そして「(仕上がらなくても)他人は関係ない」とまで言い居直った。

 これに対して、ドクター役の私は、この企画に流産の診断を下した。勿論、この件は年末の総会で再度問題となる。多くの会員から企画事業にあたらぬと指摘が寄せられ、遂に「創造—想像妊娠プロジェクト」は、座談会事業(会員の研究・実験)に降格が決議された。

 結局この計画は途絶え、やがて二年目の秋深まる頃、地主からも見放される憂き目に会いファームを返上、アートファーム計画は崩壊し、夢は露と消えた。

 崩落の芽

 そもそも農事を個人主義の産物である近代アートのカテゴリーで括ることが無理であった。個人主義は、しばしば利己主義を呼び込むからである。これを乗り越え恊働の概念に至らなければ、共同作業を伴う農事と結びつかないことなのだが。農事提案者で推進者でもある妻から農事計画は出されていない。

 妻は、創造と想像のやりとりを個人と個人の対での意志交感で考えていたようだ。これはコミュニケーションの発生として正しい。しかし、組んだ青年は妻の期待には適わない。事務的な協力は惜しまなかったが、農事にはまったく興味を示さず、指示の出るのを待っている様子であった。青年が妻に求められた農耕への期待は、青年の奉仕の態度とすれ違う。彼等の「想像妊娠プロジェクト」は初期段階で前に進みたくても進めない空回りが始まっていた。やがて、矛先が私に向けられるのが見て取れたが、あいにく週末毎の農事に携わる時間を最初から持ち合わせていない。アドバイスはできても役割分担以上には施せない。

 さらに、ドクター役を設け、レポート送信と診断回収を約束したからには、個々のコミュニケーションの他に、個々を集合させた「全体」や、特定の個に対する「他」の概念が発生している。もし個々のコミュニケーションで完成させるのならば、企画担当の青年と同等に、常に会員のそれぞれと直接交信を取らねば成らない。すでに重層する関係が企画段階で発生していることを無視してはならない。ドクター役の他の会員がその役目を無視されては、出産日に診断に立ち会う資格を剥奪されたと受け取り、収穫祭の当日の参加を辞退せざるを得ない。

 このプロジェクトと収穫祭の結果に対して、「いったん社会提案したことは、利己的エゴに留まることなく公言した約束を優先し、身を削ってでも責任を果たさねば、たとえ配偶者であっても許しがたい」と詰め寄る。このようなかたくなな私の態度は、「(あなたに)私だけを見つめていて欲しい」と願う妻個人の欲求をも蹴散らした。これを機に夫婦は互いに違えたままにひた走る。それに反して他の会員からは、アートハウスの運営に積極的に加わる者が続出。アートハウス活動はこれ以降、2000年までの充実期を迎えることになる。だが、すでにこの時点で、10年後に訪れる吉田の崩落の芽が、家内分裂の怨念から育っていたことを認めざるを得ない。

 今になって思い返してみても、アートファームの企画を立てようにも意識の方向が食い違い、実行にあたり当事者が相互に一方通行の期待を寄せ、結局担当した責任を全うできないのでは成果は期待できまい。企画とは、それまでの経験と実績を基に共通理念をもって方法論と役割分担を組立てた社会的責任のある計画である。その上で実行に至ることで、継続し努力した成果が期待されるのであり、一朝一夕にして成せるものではない。 

2.                     「コスモ夢舞台」展望

「コスモ夢舞台」の状況認識

 2009年の秋、コスモ夢舞台に立ち会って思うことを、過去の苦痛を回想しつつ、不肖ながらも私なりにこの活動について考えてみたい。

 先ずは、今こうして我々が参加している事実を認めることに他ならない。

 状況認識からいくと。佐藤賢太郎氏はここ豊実のご出身であり、ご先祖の残された土地を受け継いで移り住む必然がある。そして、佐藤夫妻の絆が、彫刻家の一家として生活を築いて来た自負にあり、その実績を基盤にコスモ夢舞台の活動をしているので、覚悟と情熱が感じられ説得力がある。しかも、ご夫妻を取り巻くフクロウ会のメンバーに支えられ、推進力も備わっている。

 都会に住む彼等フクロウ会のメンバーは、生活が安定し悠々自適に暮らせ、余生の限りこの活動に夢を託す体勢である。そして、ご夫妻とこのメンバーは共に努力し、今やアーチスト・イン・レジデンスを可能とするインフラ整備を成してきた。また、地域の出版社や行政からの協力と企業協賛等も取り付け、小さなメセナネットの構築に至っている。さらに、EUジャパンフェスト委員会に加盟することで、様々な国際交流事業がこの寒村になだれ込んできた。

 ここまで辿れば、コスモ夢舞台はすでに充実期に至り、まことに旨く機能しているように見受けられる。勿論この陰には積年の努力の賜物があり、それでも順風の裏を返せば幾つもの問題点が潜み、突き放してみればこれからの課題が浮き彫りにされてくる。

 問題提起

 佐藤賢太郎氏は里帰りした今、かつて豊実から出て埼玉に住まい、東京で彫刻家として活動した数十年の間に蓄えた様々な可能性の全てを、生まれ育ったこの地に返そうとしているのだろう。氏がコスモ夢舞台で里山アート展やその他のイベントの開催にあたり、その可能な限りの実現に努力し、継続してきたことは素晴らしいことであり、誰にも真似の出来ることではない。おそらく佐藤氏は、地域住民がこぞってコスモ夢舞台に上り、踊り出す夢を見ているのかもしれない。

 しかし、今のところ氏と住民の意識は必ずしも一致している訳ではないようだ。この活動が芸術の問題で終始し、しかも毎年続けられて来たとは言え将来展望がないのでは一過性の祭りごとの域を越えない。この限りでは、根本にある過疎対策や地場産業再生の問題の解決には至らず、地域住民の望みに適わないので、支持を十分には得られないであろう。住民の個々の幸せは、芸術家である氏の夢とはすれ違ってはいまいか。住民の生活から乖離した芸術活動では人々は付いては来まい。

 佐藤氏がときどき漏らす住民意識の不揚や、シンポジウムでの住民からの懐疑的発言がそのことを示している。この中身を解き明かし解決することが夢の実現に繋がる重要なことだと思われる。

 過疎問題後継者と産業

 この度かかわって解ったことのひとつに、豊実の集落内に就学児童(小学生)がたった一名であり、通学に10キロ以上も下った日出谷小学校まで町営バスに揺られなければならない。児童数は近隣の集落から集まってもやっと30名程度であり、彼等は復学方式で学んでいる。この事実を知り、過疎の現実にリアリティが増す思いだ。この地には全国的な少子化現象とは別に、寒村の宿命として過疎問題がある。

 この地の産業動向を近代以降の歴史でみると、その盛衰と状態の変化が鮮明に浮き上がってくる。

 阿賀川と支流域は昭和初期までは林業が盛んで薪炭や木炭を特産とする山村地帯であった。伐採された木材は筏を組み阿賀野川河口まで運ばれ、

陸路徒歩で必要物資を持ち帰る通商経路(峠道)が発達していた。伐採と植林、搬送と帰還の循環が明瞭にイメージできる。しかし、今日では豊富な森林資源は安価な外材に押され、手つかずのまま佇んでいる。林業は枯渇してしまった。

 この経路は近代化によって一変する。大正期は鉄道の時代、磐越西線(岩越線)の開通で人・物ともに陸路で新潟、東京方面への搬送を可能とした。さらに、大正の末頃より昭和中旬にかけて発電所の相次ぐ設置で阿賀川は幾つかのダムで仕切られ、筏は流せなくなる。また、阿賀川には幾つかの渡しがあり、船が大河の対岸との断絶を解消してきたが、今日ではその付近に立派な橋梁が架けられ、交通手段は車に差し替えられた。

 鉱工業の大規模雇用をあげると、江戸時代に開発された草倉銅山があった。明治期に入り財閥企業による掘削と精練の仕事が拡大し、明治中期の最盛期には八千人前後の労働者が働いていたという。しかし、大正期に入ると産出量が減少し閉山し、多くは足尾銅山へ移動してしまう。鉱山の閉山はひとつの町規模の消滅に値する。

 昭和電工鹿瀬工場は敷設された鉄道と余剰電力を活用し、地産の石灰原石を原料に化学肥料を生産。最盛期の昭和20年代は三千人近くの従業員を抱えた。だがこれも後に原料の不足と公害問題の発生で閉鎖。生産品目をセメント製品に替えた新潟昭和が入り今日に至る。地域で唯一の大きな雇用を擁する。

 また、発電所の合理化や駅の無人化も雇用を減らし、人口減の一因となった。

 単純に考えれば、住民を留めておける仕事が少ない場合、若者の多くが職を求めて都会へ出ていく。残された老齢世帯に後継者がなければ途絶えてしまう。やがては廃村の危機が忍び寄る。少なく見積もっても、産業の枯渇が人口減の主因であるのは確かである。過疎はそこに住む人たちを養う産業の欠如から起こる。

コスモ夢舞台の後継者問題

 地域の後継者問題もさることながら、この活動も後継者の養成が急務なのに、問題は未決のまま据え置かれている。フクロウ会はここでの活動をこの上ない楽しみにしているようだが、余生を楽しむ方法として人それぞれなのでそれでも良いとは思う。だが、すでに彼等は60歳以上の高齢者の集まりであり、いったいあと何年ここでこの享楽を続けられるというのだろうか。さらに、佐藤賢太郎氏以外に、地元作家はいない。おそらくこのまま継続したとしても後に続く者がなければ、佐藤夫妻と彼等フクロウ会との活動が途絶えた途端に元の木阿弥、この地は平凡な寒村に戻ってしまうに違いない。

 では、氏と彼等の意志を継ぐ若者がこの地に育つのか。あるいは勇んで入植する者(作家)があるのだろうか?

 例えば、先の少年が将来、コスモ夢舞台に躍り出るとは思いにくい。彼は帰宅後に遊び相手がいないので、日中里内で見かける大人たちにそのお相手を申し入れているに過ぎず、けっしてこの活動に特別注目している訳ではないからだ。勿論彼が、将来如何なる人生を全うするかもしれないが、幼少時に培った経験は、幾ばくかの生きるヒントを与えるに違いないと思えば、それは別ものとして楽しみではある。

 では、参加作家といえば、全て里外者で占められている。彼等はインフラ整備されたここで、経費がかからないこともあり、自由な造形表現の許される場として他では試せない表現実験に活用できるとすればメリットであるかもしれない。しかし、我彼等にとって豊実は遠隔地であり、往復するだけでも時間を消費し体力を消耗、大きな負担でもある。また、けっしてメジャーともいえない片田舎の野外展に参加作家を呼び込めるのは、佐藤ご夫妻の人間性の魅力に取り憑かれてのことかもしれない。

 だが、参加作家にとって、里山アート展を造形表現にまつわる問題でのみ捉えているかぎり、一過性のイベントである方が好ましい。おそらく、遠方から参加している彼等に後継問題を求められたらその途端、さらなる負担が成長し重荷となり、たちまち逃げ出してしまうかもしれない。我彼等には後継の責任をとる必然に乏しいのだから。

 したがって、今のところ後継者は見当たらない。

 誰に求められる舞台なのか?

 里山アート展は里外の芸術家によってなされているのだが、我彼によってここでの体験が記憶され、別の場で語られるならば、これも取り残され忘れ去られてしまう運命にある地域が、風通しよく甦ることになるのだとしたら、我々は吹き抜ける風程度の役割を果たしていることにはなる。この次元において我々は、ここでの体験を各々の夢の探求の精神的な刺激に受け取れば良いことになる。

 もうひとつEUジャパンフェスト委員会を通じて欧州の芸術家がこの地を訪れている。2009年の様子を見ると、合唱団の歌声が山々に木霊し、地元小学校の子どもたちとの交流に感動が沸き起こる。また、多くの写真家が独自の眼で西会津や鹿瀬、豊実の片田舎の風物を捉え、欧州へ戻り展覧を開催。豊実の住民の意識外で豊実の記憶が欧州に届けられている。これだけでも夢見る想いが駆け巡るではないか。

 そして、この年より「里山アート展」は、初日に「奥阿賀・田んぼ夢舞台祭り」が併設された。田圃に舞台をこしらえ、地域の多くの住民が寄り合い、よく晴れ渡った秋空の下に歌や踊りで賑わった。たった一日の瞬時の出来ごとに、実に多くの人々で盛り上がった。これは住民からの理解を得るための仕掛けとした参加型のイベントであり、村内の伝統芸能や市民芸能と村外者からの芸能を一堂に併せた「都市—農村交流」の試みである。特に、里の人々に参加を促すことで、夢の体現の共有を狙ったのであろう。

 さらに私の想像を働かせば、この祭りで佐藤氏が住民に求めたいことは、里山アート展で表舞台に上る芸術家たちよりも、将来この地が表舞台になりコスモ夢舞台を裏で支える役割を担う住民が、やがて表に押し上げられていくことに気づいて欲しいという期待が込められているように思える。

 これらのことより察すれば、自ずと「誰に」の答えが出て来る。コスモ夢舞台とは、各々の立場の違いを踏まえた上で、関わり方の深度や角度の違いこそあれ、住民を含め、これに関わる全ての者「我々に」に向けられた夢の享受に違いない。

 

 将来へ向けた期待 ソーシャル・キャピタルとしての芸術運動

 佐藤賢太郎夫妻が里帰りして以来、コスモ夢舞台なる理想を掲げて里山アート展を始め、さまざまな試みに動いていることで、住民を含め我々にとっても大きな刺激になっている。これは豊実における一大事件に値するに違いない。

 このような状況の中で住民は次の三つの見解を持っているのではないかと想われる。①これから一体何が起こるのだろうかという期待感の高まり、②やっていることの真意が解らないとう苛立ち、③どうせ好き勝手に遊んでいるだけだろうとした憤慨。だとしたら、住民の多くは片目だけを見開いてこれを眺め、片足だけ敷居をまたぐ。言わば半身の状態で付き合うことになるのだろう。

 村人のこのような態度は、何を意味するのかを考えてみたい。

 先ず、我々はコスモ夢舞台を牽引している強者が豊実の寒村にいることで、地域活性化へのモチベーションを高められる事実を認めることが重要である。その上で「里山アート展」に参加し、「奥阿賀・田んぼ夢舞台祭り」に立ち会ってこの活動を考えるとき、我々は佐藤賢太郎氏が目先の夢の享楽やその享受の仕方に留まっていられなくなり、まもなくその先に繋がる将来展望を示されるだろうと期待してしまう。

 次に、佐藤氏が里山アート展に寄せる想いとして記した文中「わたしはアートで地域おこそうとスタートしたわけでない」(『2009里山アート展冊子の内容(企画案)』 2009.11.9)とのべられたのは、謙遜な態度を示されたのである。実はこの言葉とは裏腹に、すでに現実に夢の実現に向けて走り出していることを我々は読み取らねばならない。

 もし、コスモ夢舞台の活動が佐藤氏とフクロウ会が老いるまでの一過性の祭り事であるならば、たとえ「田んぼ夢舞台祭り」に地域の方々の沢山の参加があったとしても、問題意識を違えている住民の懐疑心は抜けることはない。本当にその先に続く展望がないのでは、誰にだって永続性はイメージできないので、半身でのお付き合いから逸脱しえない。誰も本気では付いて来るまい。

 地域住民が望んでいることは今の夢心地の享楽ではなくて、将来の地域の姿であり展望である。そうした夢に向かう活動ならば住民にも「よくわかる」ことになるだろう。これは我々作家にとっても、この先出品を続ける意義があるかどうかを判断する上での重要なポイントである。

 では、佐藤賢太郎氏は何を目指しているのだろうか?

 私の解釈では、氏はコスモ夢舞台に、この先この地で芸術家が地域の人々と共生できるシステムの構築を夢見ているのだろうと思う。それは里の人々が芸術家の活動を支え、芸術家の活動が外部へ働きかけ多くの人々を呼び込み、人々と生きる勇気を共有し合うこと。つまり、ソーシャル・キャピタルの考え方である。

 さらに、外部との関係によってこの活動は住民と芸術家の生み出す内容が正当に評価される。つまり、この里で活動に関わることで新しい芸術のあり方が見いだされ、新たに生み出された地場産業が地域住民と参加作家の経済までを支えられる永続的な繁栄であると思う。

 どうなっているの?この社会

 経済音痴、政治音痴の私が社会について語るのは、はなはだ滑稽ではある。しかし、このまま解らぬことだと問題を避け、分け入らずにいれば、豊実は限界村落に向かい、我々も破綻し、日本が沈没する。世界は矛盾に満ちあふれ混乱が続いてしまうことは誰にでも感じとれることであろう。

 この現実に対して、里内だけの視点から抜け出し全国区に目を向けたとしても「農村—都市間交流」までのことだろう。勿論これは田舎資産として活かせる最強の武器である。だが、経済破綻国家へと向かう日本の枠内で過ごしている限りでは事態は変えられない。世界にまで目を見開いたときに、国内不況とは裏腹に円高差益で潤う不思議な日本の立ち居置が見えて来る。

 今日まで繁栄して来た資本主義先進諸国が同時に失業者を多産している事実は、まさしく資本主義の行き詰まりを示していると考えられる。もはやこの先、景気の回復が望めないばかりか、空中分解さえ起こりかねない。それなのに国民の多くがどんなにも貧しい生活を強いられようが、円の為替レートの高騰は経済成長を示すとは、摩訶不思議である。

 今日の円高が示す意味は、為替レートが世界最高に至ったならば限界成長を示し、本来ならば資本主義スパイラルに従って下降するはずである。しかし、財閥系の銀行や商社のみが為替バブル成長を継続しているのは、資本主義の末期的症状に過ぎないとは言え、利益を上げている事実がある。間もなく我々は、円高により見かけの経済成長を示していると思っていたことが、バブル崩壊以降の円高が新自由主義政策に乗って、商社が国際間で為替レート差益を得、銀行の貸付枠拡大による金利利益であって、我々一般国民の生活レベルから乖離したところで成長を続けていることに気づかされる。 

 このまま資本主義の競争社会が続けられるならば、貧富の差がとてつもなく開き続けるだろう。低所得者層がよりいっそう厚くなり、同時に海外から低価格の製品が輸入され市場に氾濫する。デフレスパイラルの発生である。国内生産が無くなったため、人々の職(働く場所)が極端に減少し失業者が増え続け、地方では現金収入を得にくく、都市部ではホームレスが溢れることになる。この流れは容易にくい止めることが出来ない。その結果、日本はすっかり自給率の低い消費国、貧民国家に変貌してしまった。

 我々はこの事態に、おとなしく破滅を待つのか、それとも愚かにも一揆を起こすのだろうか。何らかの手立てを考えねばならない。

 回避策-為替レートの問題から

 ひとつの回避策として、資本主義を前提にしている限りでは、為替レートの格下げをしなければ再成長はあり得ない考え方がある。これは単に貨幣単位の変更のデノミネーション(デノミ)ではなく、国際評価の変更であり、日本経済の崩落を世界に向けて宣言することである。つまり、国として極貧からの再出発が求められる。実行すれば、おそらく一時は大混乱を伴うが、地場産業の復活でやがて秩序は回復するだろう。

 これを民主的に実行するならば議会制民主主義のルールに則り政党をつくり、政権を担当できてからの政策となる。しかし、選挙の度に政権が交代し政策が変わるようでは、この策には適用しづらい。ところが、我国の産業が枯渇してしまった現在、生産のほとんどを海外に移行している現状をみると、人々がデノミによる自立の自信よりも回復できない不安の方が遥かに大きい。というよりも、国の指導者たちは大企業が被る莫大な損失を恐れているに違いない。それは国益の損失に他ならない。したがって、政府が資本主義を堅持し大企業の庇護政策を採る限りデノミはなし得ないことである。

 別の策として、今更に共産主義を持込むのは時代錯誤だろうか。否、デノミ移行の初期において、地場産業が復活し自給率が回復するまでは、一時的に保護貿易政策は必要である。つまり、時限付き共産主義を以てデノミを成し、安定をみて資本主義にもどす政策がある。実行するのに確固たる理念と国民の総意、そして並外れたリーダーシップが必要である。

 手っ取り早くこと成すには、リーダーとしての適任者がいれば、一時的な独裁を許す手もある。しかし、独裁主義はことごとく失敗してきたことを過去の歴史が証明している。一旦独裁政治に走ると、目的のための障害となる異論者を排斥し、異分子として抹殺することさえあり、多大な犠牲者を出した過去の過ちがある。やがて独裁者は抵抗するレジスタンスと外圧に押されて孤立し、遂には目的に到達できずに自滅してしまう。

 さもなければ、資本主義の競争社会に代わる新しい世界構築が必要となろう。

 まとめ:芸術活動としての回避策地球主義と夢の実現

 EU(欧州連合)の勇断にあやかれば、WU(世界連合)を構築し地球上の全ての国々の通貨の統一が解決策になろうか。

 現実は各国益の問題や民族、宗教対立等複雑な問題があり、そう単純にはいかないだろうが。それでも、そもそもユーロが米ドルの対抗策であり、台頭が予想できた中国元への将来的防御に他ならないのだから。地球上を統合するWU(世界連合)の構築は、それらの拮抗をも含めて国家間の貧富の差を是正する施策になるだろう。EUがそうしたようにWUが民族や祖国、文化を尊重し残したまま、地球上が世界共通貨幣ワール(?)で分母を揃える地球主義の考えである。これによっても個々人の貧富の差までは消えはしまいが、少なく見積もっても国家間の為替レート差やそれによって生じる貿易摩擦は解消する。是非とも待望したいところである。出来るならば、今すぐにでも世界中がこの目標に向かってひた走るべきではないかと思う。

 コスモ夢舞台の問題に戻してみよう。

 佐藤賢太郎氏の最近の動きを見ていると、都市でもない豊実を欧州文化首都に立候補させようと目論んでいるのだろうかと思える節がある。日本がEU加盟国でないので非現実的ではあるが、もしそうならば考え方としては興味深い。どうなることやら注目に値するし、勇んで挑戦する甲斐がある。と言うのは、ここに大いなる可能性が有ることに気づかされたからである。

 もし、EUが欧州の共同利益の枠を超えて、WUとして地球上のすべての共同利益に移行していく意向ならば、今直ぐにでも日本政府はじめ世界各国がEUに加盟する選択肢がり、早期にWUを実現させられる。経済摩擦や地球温暖化等の国際問題を解決する上での画期的なベースが整えよう。そうなれば、欧州文化首都の豊実への誘致は現実味を増してくる。

 世界中が経済の分母を同じくして、つまり貨幣単位を同じくして地球社会が成り立つ明朗構造への移行に芸術の本質が適うならば、豊実の住民ばかりか我々芸術家にとっても解り易い。我々はこの地球主義の自覚を持って純粋に芸術創造に打ち込めるだろう。コスモ夢舞台の活動がWUへの布石の一助になるのであれば、これこそ芸術の社会貢献である。

 豊実での挑戦、つまりコスモ夢舞台の夢の実現に到達するには、20世紀までの芸術の価値観(パーソナリティー)で、それだけで成り立つのではなく、芸術が民主主義や資本主義の影響を受けて来たこととは逆に、今世紀の新しい芸術概念として、民主主義を越える社会改革や資本主義を越える経済改革に繋がる地球主義(ソーシャル・キャピタル)へ向けて走り出すことで、豊実の存続繁栄ばかりか、芸術存在の活路も開けてくる。今日、芸術は地球主義という前人未到の遠大な課題の架け橋を担っているように、私には思える。そのきっかけづくりと、目標に立ち向かう過程と努力が我々地球人の夢、と言うことになるのではないだろうか。佐藤氏がこのことを前提に欧州文化首都を豊実に持込むのであれば、画期的なことである。

 そしてコスモ夢舞台がWUの成立への一助としての役割を果たせるならば、豊実の寒村で行われているこの活動はよりいっそうの輝きを発する。その輝きに引き寄せられるように人々は舞い戻り、地場産業は復興し、後継者も出現するだろう。内外の芸術家や多くのひとたちが行き交う場となり、佐藤氏にとっても、住民いとっても、我々にとってさえも夢は適うに違いない。

 普段、佐藤氏が「何も大それたことは考えていない」とおっしゃられるその言葉の裏に、実は着実にここへと導かれ、ことが運ばれているように、私には思えてならない。

 貴方のお考えはどうなのだろうか、真意を知りたいものである。